No Enjoy, No Success (for me)

ここ数日で2冊の本を読みました。どちらも仕事に対する考え方の本。この本を読んで徒然と考えてみたことを、少し留め書きしておきます。
最初に読んだ1冊目は「プレイフル・シンキング」という本で、仕事への取り組み方をいかに楽しく捉えるか、という視点で書かれています。物事に対してわくわくどきどきしている状態がプレイフルな状態であり、物事に対してそういう気持ちを持つためにはどうすれば良いのか、そういう場をつくるためにはどうすれば良いのか、ということが書かれている本です。苦労しないと成長出来ないなんてことはない、毎日がHAPPYで良いじゃないか、HAPPYでいるための方法としてこういうのはどうだろう、と教えてくれる本 :-)

プレイフル・シンキング

プレイフル・シンキング

次に読んだのは「小さなチーム、大きな仕事」という本で、仕事で成功するためにはどのような考え方を持てば良いのか、という視点で書かれていました。刺激的なキーワードがいくつも散らばっていて、考えもしなかったような見方に気付かされる本です。
小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則 (ハヤカワ新書juice)

小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則 (ハヤカワ新書juice)

この2冊の本を読んで感じたのは、すごく対照的だということです。書いてあることも、言葉面だけみれば正反対のことが書かれてあったりします。例えば「失敗」についての捉え方。"プレイフル"では「失敗して当たり前、失敗とはある時点での現象であり、本当の失敗とはその時点で前に進むのを諦めてしまうこと」だとしています。"小さな"では「失敗から学ぶべきことに何があるのか、成功から学ぶべきことの方がずっと大きく、成功だけが本当に価値のある体験」だといっています。
この2つの意見は「失敗」に関してまったく正反対の意見を述べているように見えるけれど、でも実は、そうではないのかも、と思う気付きがありました。どういうことかというと、"プレイフル"には「失敗を恐れず一歩を踏み出そう」ということが書かれているのであり、"小さな"には「失敗を良しとして自分を甘やかすな」ということが書かれている、ということです。つまり、一歩を踏み出せない人が動き出すためのメッセージとしての前者であり、動き始めた人へのメッセージとしての後者である、ということ。メッセージを伝えたい相手の状態が違う、ということ。

この2冊は、仕事をしていく上での考え方というジャンルでは同ジャンルなのかもしれないけれど、仕事というものをまったく違う視点から見ています。"プレイフル"は「楽しく」ということを重視していて、"小さなチーム"では「成功する」ということを重視している。前者は「楽しめず動き出せない人」への本、後者は「楽しんで動き出している人」への本。読む順番が違っていなくて、本当によかった!(最初に"小さな"を読んでいれば、きっとどうしようもなくつらくなるだけだった気がします)。

2冊の本に書かれているメッセージや目的は決定的に違うけれど、でも、どちらもたどり着く先は同じだと思います(たどり着いたときの状態に違いはあるとしても)。きっと「楽しく働くこと」と「仕事で成功すること」は比例することはあっても、反比例することはないのではないかって思います。ただ、上記2冊においては見ている方向が逆なだけで、「楽しく働くことによって、より良い動きが出来、それが仕事への挑戦や成功に繋がる」であるか、「成功するために動くのにモチベーションは重要であり、モチベーションを保つためにも小さな勝利(成功)を手に入れ続けよう」であるか、ということ。

わたしは基本的に楽しいことが好きで、楽しくないことにはあまり時間を費やしたくないタイプです。数日前に読んだid:Chikirinさんの「イケテない私」というエントリでいうなら「イケてない」方。このエントリの中で、共感できる部分があったので、引用してみます。

ちきりんは自分も今は「明らかに下段の人だ」と確信しているけれど、「もしかしたら自分は上かも?」と思っていた時期はとてもつらかった。

だからイケテない人がイケてる人を真似したり、同じように生きようとするのは止めたほうがいい、と思ってる。そんなことしても人生つらいだけだ。

「努力を否定するのか?」と言われそうだが、努力って下にいる人に関して言えば、基本は報われないものだと思ってる。(たまたま報われることも、もちろんあるだろうけど。)だから、努力というよりそのプロセスが好きならやればいい。楽しいと思えるならやればいい。でも、つらいだけならやめた方がいい。人生は無限じゃない。つらいことより楽しいことに時間を使うべきだ。

一方でちきりんは、「イケてる人には是非頑張ってもらいたい」と思ってる。そういう人にとても期待しているし、応援しているし、尊敬している。才能のある人にはどきどきするし、センスのすばらしい人には感動する。もしもちきりんで役立つことがあるなら、なんでもお手伝いさせていただきたいです、とも思ってる。

わたしも今は「明らかに自分はイケてないし、それで良い」と素直に思います。だけど、そうではなく、「イケてる人になりたい」と思っていたときはすごくつらくて、大変でした。でも、わたしが大切にしたいのは「楽しい」状態であることであり、そうではないことは"小さな"でいう「やめたほうがいいもの」だと、今はそう思います(それは、勉強をしないとか、したくないことは一切しないとか、そういうことではなくて。いかに成功するかよりも、いかに楽しむかという視点で物事に取り組む、そんな視点を持ち、それを認めるということ)。
人によって"小さな"でいう「芯」は違うと思うし、それで良いんだって思います。モチベーションをあげるためのより重要な要素が「楽しい状態であること」なのか「成功すること」なのか、あるいは全然違う別のことなのか、人によって違いがあるだけ。わたしにとっての「芯」は「成功する」ことよりも「楽しむ」ことにあって、"小さな"が教えてくれるように「その部分を最大限に引き出すべく、エネルギーをすべて注力」しようと、そう思えました。それは「成功したいという気持ちがない」「失敗しても楽しければ良い」という訳では決してなくて、ただ、わたしが動き始めるための切欠。拠り所が欲しくなったときに見返す原点。

2冊の本に出会えてよかったと思います。どちらか片方が欠けていればこんなメッセージは受け取れなかったし、ここまで考えることも、きっと出来なかったはず。「動き始めるのが少しこわい」方へは"プレイフル"を、「希望を持って動き始めている」方へはその世界の地図として"小さな"を、どちらもおススメの本達です :-)

「形」についての考察未満

鈴木雄介さんのエントリ「ソフトウェアにおける形についての考察」を読んで、「面白いな、形の会に参加してみたいな」とtwitterでつぶやいてみたところ、話しがちょっと広がって、わたしが今持っている「形」に対する考えを書いてみることにしました。
twitterを追ってつぶやきを読んでいくにつれ、形の会の参加者にどんな方々がいるのかが分かり、その錚々たるメンバに驚愕したりもしながら。彼らの思考の深さには到底及ばないけれど、こういうことを考えるのは好きなので、これもひとつの切欠だから、久しぶりに考えをまとめてみようと思います。こういうエントリを書こうとすると、なんだか大学生の頃に戻ったみたい :-)

twitterでつぶやかれていた「形」に関するエントリとして見つけて読んだものに、上記の鈴木雄介さんのエントリと、棚橋弘季さんの「形をめぐる冒険のはじまり」というエントリがあります。形について話しをされていた方々の話しは幅が広く、すべてについて突っ込んでいくと、頭の中で散らばっていきそうだったので、どれについて書こうか、迷ったのだけれど。一年前くらいからずっと気になっている、身体的なものをデジタルデータに変換することでその身体性を受手に提示する、ということはどういうことだろう、ということについて、少し書いてみたいと思います。

例えば、鈴木雄介さんのエントリに書かれていた、手紙とメールのお話し。

手紙では、書くという行為の関わり先は「この手紙」そのものです。ペンを使って痕跡を刻んでいくという"形作る行為"と、その結果には緊密な関係があります。ですから、手紙では、「この手紙」そのものが他人と共有される形になります。
 一方、メールでは、書くという行為の関わり先は「メーラー(=メールソフト)」になります。そして、タイピングという"形作る行為"によって生まれるのは「メールのデータ」であり、他人と共有されるのも「メールのデータ」です。

書くという行為をデジタルデータに置き換えた瞬間「そのもの」が相手と共有されることはなくなります。つまり「身体性」が欠如する、ということ。手書きの手紙に感じられる温もりをメールでは感じにくいのは、この「身体性」が抜けているからではないか、と思います。
デジタルデータに変換されることで、そのものが持つ「意味」以外のすべての「身体的」な付加価値は排除される。だからと言って、メールを受け取った相手が、そこに「身体性」を感じていないかと言えば、たぶんそうではなくて。デジタルデータに変換される際に一度は抜け落ちていったものが、受け手が自分の身体を介してそれを再度アナログなものに変換するときに、身体性が付加されている。その量が、アナログなものとして受け取るものよりも少ないとしても、その変換は無意識に行われているような気がする。
その「無意識」とは? デジタルデータから受け取る「形」が持つ形とは? アナログなものがひっそりと持っている数値を引き出してデジタルに変換することで欠如されていく細かな粒子は、いったい受け手に対してどれくらいの影響力を持っていて、それは何なのか。変換の過程で抜け落ちていった部分を人間はどのくらい補っているのか、補っているものは抜け落ちているものと同じものなのか、違うものなのか、そもそも補えているのか、補うことができるものなのだろうか?

一年前から思考が止まって、答えがまだ見つかっていない、こんな問いかけ。話しは逸れてしまうけれど、スケーラビリティが変わると印象が変わる、といったつぶやきも、関連のつぶやきの中のどこかで見かけたような気がします。これについてもとても興味があります :-) 形が変わると印象が変わる。同じようなものでも些細な形の変化によって、受ける印象はがらりと変わる。面白いと思うし、同時にとても不思議で、少し怖い。

なんだか、つぶやかれていた「形」の話しからは少し話しが逸れてしまったような気もするけれど :-0 逸れたついでにもう少しだけ逸らすと、この不思議に思うこと、を模索している人達のひとりが、現代アーティスト、だと思っています。
形の会の思考はハッシュタグ付きでつぶやきとして展開されるようなので、深い思考の波を追いかけるのが楽しみです :-)

「エレメント」構造デザイナー セシル・バルモンドの世界

セシル・バルモンドの個展へ行ってきました。展示されていた作品の中には、印象深く思う作品がいくつもあって、とても心惹かれる展示会でした。
気になった作品の一つ目は、会場の中に入った瞬間に広がっている、写真やイラストや言葉が書かれている大きなバナーが幾枚も下がる空間。迷路のようになっていて、くぐり抜けながら先に進むのだけど、その度に目に入る写真や言葉が心に滲む、とても居心地の良い空間でした :-) もっと時間をかけて、ひとつひとつの言葉を噛み砕きたかった。
二つ目は、レシプロカル・グリッドという作品で、数字の美しさをこれでもかというほどに感じさせてくれました。数字の持つ意味の、なんて美しい。すべてのものは数で表すことができて、宇宙の断片を理解しやすい形でわたし達の前に提示してくれる、それが数字。数字の持つ意味の、なんて美しい。
三つ目は、H_edgeという作品。これは中を歩けば歩くほど、気付きがありました。アルミプレートとチェーンは、2つが重なっているからこそこの空間ができているということ、強固な作りのようで実はものすごく脆いものでもあるのだということ、窓のように空いている空間はどこまでも突き抜けているのだということ。解説には「スポンジのような」と書かれていたけど、わたしはまるで細胞のよう、と感じました。複雑なようで単純、だけど計算されている、それが単純ということと矛盾しない、そんな不思議な空間。
それから、セシル・バルモンドのつくった建築物のパネルをたくさん見ることができました。その中でも、アラブの美術館が一番その場に立ってみたいと思ったかも。美術館の構造デザインというと、ル・コルビジェを思い浮かべてしまうのだけど、この2人の共通点と差異を調べてみるのもとても面白そう。
会場をひととおりめぐって感じたことは、アーティストは「そこにあるもの」をただ作っているのだということ。「そこにある」ということを伝えているということ。人が気付いていない「そこにあるもの」はこんなにも本質的で、単純で、そして美しい。そのことを建築物だけでなく言葉にをもしているセシル・バルモンドの書籍を読んでみたいな :-)

「エレメント」セシル・バルモンドの世界 http://www.operacity.jp/ag/exh114/

世界が変わった日。

今日明日とかけて、開発者にとってはとても大きな年に一度のイベントDevelopers Summit2010が催されています。「世界は変わった。開発の現場はどうか?」の言葉を掲げるこのイベントに、仕事の関係で丸一日は休めなかったのだけど、唯一今日の午前中だけ、参加してきました。

でも、この記事は、デブサミ2010の記事ではなくて、ただひたすらにわたしの一日を綴った日記。

デブサミ2010では、id:papanda0806さんの講演を聞きました。内容についてはきっと他のいろんな人が書いてくれているし、自分でまとめるのはあとにして。ただ一言だけ書くのなら、市谷さんが「信じる」と言い始めた瞬間から、涙がぽろぽろこぼれてきて、とまらなかった。
午後からは仕事があったため、残念だったけれど、デブサミを後にしました。でも、会社に戻って仕事をしていても、心に残った講演の余韻が消えなくて、ふとしたときに「次は君の番」という言葉を思い出しては、目が霞みそうになって我慢。どうしてこんなに心に突き刺さっているのかわからない、ほんとは市谷さんが一番伝えたかったのがなんだったのか、考えても言葉にできない。だけど、次はわたしの番だって思いました。角谷さんが投げて市谷さんが受け取り、三年をかけて市谷さんが温め、今日あの場で投げ返したそれを多くの人が受け取り、そして、次は、わたしの番。「次は君の番」。この言葉を反芻すると、十秒で泣けてしまうんじゃないかっていうくらい、講演が終わって12時間以上が経った今でも、12時間前と同じように心震える。

世界が変わった日。仕事の内容は変わらないし、出来ることも出来ないことも、悩みは悩みのまま、なにも変わらない。だけど、今日は、わたしの世界が変わった日。次はわたしの番。市谷さんが投げたバトンが、今、手元にあるような気がしてる。
本当は今日、仕事が休めなくてデブサミには行けないはずでした。それが、前日の夜にお休みをもらえることになって、行けることになって。市谷さんのあの講演をあの場所で聞いてしまった、その、責任。受け取ったバトンは重く感じるけど、重ければ重いだけ、きっと錨になるだろうという確信。市谷さんの話しを、もっと聞きたい。

世界が変わった日。仕事の内容は変わらないし、出来ることも出来ないことも、悩みは悩みのまま、なにも変わらない。そのはずなのに、今日を切欠に、確実に、少しずつ何かが変わっていく気がする。信じられないことは、午後にも起きました。同じ部門の上司に、すれ違い様にかけられた言葉。その言葉そのものをここに書くことは出来ないけれど、わたしがデザインに興味があることをその人は知っていてくれて、デザインが求められるそんな仕事がありそうで、仕事がきたら声をかける、と、言われました。信じられないと思った。デザインなんてまったく仕事の範囲外で、わたしがいる世界はSIの世界で、業務としてデザインが出来るだなんて思ってなかった。だから、今年はインプット→アウトプットをして業務以外でものをつくりたいって思ったし、そこでは思い切りデザインしようと思ってた。社内ベンチャー企業のCEOがデザインの重要性をつぶやくのを読んで、会社の中にもこんな風に考えている人がいるんだということを知って、それだけで、すごく嬉しかった。だけど、世界は変わる。優秀な人材を集めまとめている上司は本当にすごい人で、わたしも拾ってもらいたいと思ってた。けれど尖った技術を持っていないわたしは、その人のやることを一歩下がったところで見ているのが精一杯だと思ってた。それなのに、そうじゃなかった。本当は、自分で勝手に参戦することを諦めていただけで、そうじゃなかった。そんなわたしにもちゃんと視線を落としてくれて、機会を与えると言ってくれた。世界が、変わっていく。

好きなことを好きだ好きだと言っていてもしょうがない。嫌なことを嫌だ嫌だと言っていてもしょうがない。出来ることを出来ると自負することも、出来ないことを出来ないと嘆くことも、全部ぜんぶしょうがない。好きなことは、好きだという気持ちを持って貫けるくらい、好きになろう。嫌なことは、なぜ嫌なのかを考えて、それでも本当に嫌だと思うのならそこに変化を求めよう。わたしが技術的に持っているスキルでまわりに敵うことなんて、ほとんどなにもないに等しい。だけど、出来ないことを出来ないと言って終わることに慰め以外の意味がある? 出来るとか出来ないとか、どうでもいい。やりたいのか、やりたくないのか。出来るようになりたいのか、なりたくないのか。出来るようになりたいのなら、出来るようになればいい。やりたいのなら、やればいい。それでもやっぱり出来ないのなら、一緒に頑張ってくれる人たちと、共に月を目指せば良い。一人では無理なことでも、二人、三人、増えれば無理じゃないかもしれない。

世界が変わる。わたしが今日受け取ったバトンは、いつの日か誰かに返せるだろうか。絶対に、返してみせる。受け取った熱い思いを乗せたバトンに、さらにたくさんの気持ちを詰め込んで。その時は、どんな世界にいるんだろう。相変わらず悩んで、迷って、だけど、多くの人たちと笑いあって支えあいながら、少しずつ強くなっていける、そんな世界であれば良い。

Thanks 2009, Wellcome 2010

mixiで今年一年の抱負を書いている友達がたくさんいたので、わたしもこっそり、去年の振り返りと、今年やりたいことを書いてみます :-) 今年の12月にはどれくらい達成できていて、どれくらい、考え方ややりたいことがかわっているんだろう。
去年は新しい生活がはじまり、新しい出会いがたくさんあって、しあわせな年でした。いろんなことを考えて、たくさん泣いた年でもありました。今年もいろんなことを考えるんだと思います。自分がやりたいと思うこと、やるべきこと、去年よりももっと具体的に、少しでもつかんで手繰りよせます。そのために、今年も、思ったこと、考えたこと、怖がらずにいろんな人に伝えてみようと思う。たくさんの有識者や、いろんなことを経験してこられた人たち、一緒に頑張っている同世代の人たちと、考えていることを共有して、道を正してもらったり、指し示してもらったり、あるいは後退したり違う道を選んでみたり、悩んだり考えたり、したいです。そして、今年はその過程を、twitterだけではなくて、まとまった文章としてブログに綴っていけると良いな。
仕事について。去年は、SIerのたまごとして働き始めたのに、まったくよく分かっていないSIという仕事について、仕事とは直接関係はないけど関心を捨てられなかったウェブやデザインについて、わたしは何をしたいのか、ということを自問自答してきた年でした。何に対してどのくらい真剣になれるのか、なりたいのか。今まで、どれだけ「ただ好き」だったのか。ウェブの未来に関わりたい、HTML+CSSが好き、もっとデザインやセンスがあるオフィスになれば良いのに、云々。考えれば考えるほど、どうしてウェブ制作会社の内定を蹴ってSIの会社を選んだのだろうと、たくさん悩んで、自分に言い訳して、泣いて、泣いて、勉強と称してはいろんなウェブ系のセミナーに逃げて。そして、まだ悩んでいます。こんな気持ちのままSIerとして成長できるのか? なぜここにいるのか? 1年が経った今、わたしはまだ、悩んでいる。だけど、だからと言って、この場でできることがなにもない訳じゃない。ここには技術力が高い人達がたくさんいる。仕事ができる人達がたくさんいる。だったら、わたしも身に付けたい。技術を身に付けて、仕事ができるようになりたい。そう思える場がある。だけどそれは、わたしがやりたいことをやるための踏台。Javaを極めたい訳でもない、DBの達人になりたい訳でもない、そうなれると思えるほど自分を過信出来ないし、技術が大好きな気持ちを持つ人達には適わない。だけど、だんだんと固められそうな「やりたいこと」をやるために必要なら、それをすることが出来るだけの技術を身に付けたいと思う。まわりに認めてもらうために技術やその他の能力が必要なら、身に付けたいと思う。そうしたら、やりたいことを語ることを、慰めではなく真剣に聞いてもらうことを許されるくらいには、見てもらうことが出来るだろうか?
頑張ろうって思えているのは、デザインには興味がない、重要でないと社内の多くの人に言われ続けながらも、興味がある、重要だと思う、と言ってくれる人達が社内にいること。アートが足りない、とtwitterでつぶやいてみたら、グループのみんなの前で「ソフトウェア開発にはアートが必要だ!」と言ってくれる人がいること。ポストカードをデスクに飾っていたら、きれいなデザインのポストカードだね、と言ってくれる人がいること。興味がないと言いながらも、話しを聞いてくれる人がいること。どうしてSIerにとってデザインが然程重要ではないのか、どうしてSIerにとってデザインが重要なのか、きちんとデザインに対して向きあっている人達がいること。誰もデザインに興味がないのなら、それは君が頑張れるチャンスだと、後押ししてくれる人がいること。支えらなければ動けもしないわたしだけど、支えてくれる人がいるのだから、たくさんの感謝を込めて、動こうと思う。まずは、好きなことばかりに目を向けて、日々の仕事から逃げようとしないこと。毎日の仕事をきちんと出来もしないくせに、今の仕事にデザインを、だなんて言うことなんて出来ない。デザインについて、ウェブについて考えることはきっとやめられないけど、もっとちゃんと毎日の仕事に向き合う。資格や、プログラム言語や、DBの勉強もする。地道に、確実に、ものにしていく年にします :-)
それから、日々の生活について。もっときちんと生活することを目指します。夜中の1時に帰って3時に寝て7時に起きる生活になっても、家事をきちんとできるように。ゆとりを持ってすごせる時間を少しでも作れるように。無理をする、無理をしない、そういうところをきちんと、コントロールできるように。忙しさにかまけて、まわりの大切な人達をないがしろにしてしまわないように。お休みの日は、たくさん遊ぼう! :-)
作品制作について。美術館やギャラリーにできるだけ足を運んで、たくさん感じることをしたい。できればアーティストの人と話しをしたい。メディアアート現代アートインスタレーションインタラクティブ、大好きです。アーティストの方々、個展やレセプションパーティーをするときにはぜひ呼んでください! :-)
まとめ。今年の抱負は「我慢しない」。やろうと思っていることはやってみる、やりたいことはやってみる、できることは何でも、我慢しない。勉強すること、思考すること、ゆっくりすること、遊ぶこと、作ること。勉強会やセミナーへの参加、踊りとか歌とか英語とかもろもろもろもろ、書き切れないほど多趣味でもあるので、時間をつくってはいろんなことやりたいな :-)
2010年もたくさんの人がたくさん幸せな年でありますように! 今年もよろしくお願いします :-)

何のための哲学

twitterで、iPhoneを使いにくいと思う人は使わなければいいと思う、という意見を聞きました。そのことについてなんとなくひっかっかってしまって、いくつか似たような考え方をしている人のウェブ上の記事を読んでみました。簡単に使いにくいと言う前に、そこには作り手の哲学によって考えられた意思があるのだから、慣れる努力をした方が良い、それが嫌なら使うな、と、そういう意見。

このことに関して、新年早々(明けましておめでとうございます!)ウィーン・フィルニューイヤーコンサート2010を聴きながら、ふと思い付くことがありました。以前ヴァイオリンを弾いていたことや、チェロをさわらせてもらったことがあるけれど、楽器は、演奏をするのが難しいです。トランペットやトロンボーンは音を鳴らすことすら簡単には出来ないし、練習や慣れが必要になります。上記に書いた彼らがウェブ上で言っていたのは、こういうことだったのだろうか? つまり、良い音を鳴らすためには練習が必要で、練習もせずに文句を言うなと。

だけど、少し考えてみて、それは違うって思いました。楽器はそれを使いこなさなければ奏でられない音色がある。だから奏者は絶え間ない努力をする。楽器が身体の一部であるかのように弾きこなされる楽器が奏でる音は、例えばわたしが演奏する音とは雲泥の差、本当に綺麗です。でも、例えばiPhoneを使って路線を調べる、という動作をするときに、iPhoneに慣れている人が調べてもそうではない人が調べても、同じツールを使えば結果は同じものが返ってきます。努力をしたかしないかによって、アウトプットされる結果は変わりません。だったら、なるべく努力をしないでスムーズにアウトプットに繋げられる方が良い。路線を調べることが目的ではなく、調べた路線を使って目的地に行くことが目的なのだから。

もちろん、作り手が考えに考え抜いて、絶対にこうした方が便利なんだ、という哲学を持って生み出されたものに価値がないとは思わないです。作るものに込める思いはきっと強い。だけど、そうして作られたものに価値がでるのは、ユーザに使われるその瞬間なのだと思います。使われないものはそこにあってないに等しい。
ユーザにとって本当に便利なものなら、自然と浸透していくのではないかと思います。その過程に、使いにくいという声があがったとしても、優れたものならきっと受け入れられていく。だけど、だからと言ってユーザの不満の声に耳を傾けず、絶対に便利だ、これが哲学だと言い張るのはおかしい。使えないユーザは使わなければ良いと言ってしまうような哲学は変です。なぜなら、作られたものは作り手のためにあるのではなく、ユーザのためにあるのだから。

関連して、少し話しはそれるけれど、ウェブ制作は作り手が表にでやすくてソフトウェア開発はそうではない、ということについて考えたことがありました。その時は、エンドユーザが直接触れるか触れないかによっての違いなのだろう、と思っていたのだけど。少し違う考え方を思い付いたので、書いてみます。
それは、ウェブサイトはそれ自体がユーザを楽しませ(て売上に繋げ)ることが目的と成り得るけど、アプリケーションはそうではないということ。アプリケーションはそれを使うこと自体を楽しんでもらうのが目的なのではなく(もちろん使っていて快適だと思えるアプリケーションでないと、ユーザにずっと使い続けてはもらえないって思うけれど!)、それを使ってどのくらい便利に、どんなことを実現出来るのか、ということが重要になるということ。
こういう風に考えてみて、インフラ基盤は裏方だとよく言われるけれど、実はアプリケーションだって裏方なのかもしれない、と思いました。インフラはアプリのための、アプリはユーザのための基盤。裏方は表に顔をださないものだから、ウェブ制作のように、作り手が表にでるということがあまりないのかも ;-)

「技術+芸術=」の公式の先

今日読んだ記事に、こんなものがありました。チームラボの方々のインタビュー記事なのですが、以下、一部抜粋してみます。

僕らにとって、クライアントワークもアートも曖昧にしているということは、どういうことかというと、アートというジャンルを、「未来のヒント、もしくは現在の問題を解決するヒントになるかもしれないこと。だけど、アウトプット先として産業の受け皿がないようなもの」と勝手に定義しているんです。
(中略)
それから、全ては情報なので、これまでと違って、ありとあらゆることにテクノロジーが切っても切り離せなくなりました。なので、チームラボも、テクノロジーをベースに置いています。テクノロジーの専門性はすごいスピードで深くなっていっているにも関わらず、前よりも境界線の切り分けが不可能になっています。デザインとテクノロジーも切り分けられません。そのような時代で、何か考えたり、何か創ったりするのに必要なスペシャリストの集合体がチームラボです。スペシャリストの専門性は、ソフトウェアプログラマ、DB、アーキテクチャー、インターフェイスエンジニア、サーチエンジニア、ネットワークエンジニア、ロボットエンジニア、数学者、画像処理、音声処理、建築家、CGアニメーター、デザイナー、画家など、ほんとうに多岐に渡ってます。

テクノロジーとカルチャーの実験場。ウルトラテクノロジスト集団チームラボ

上記の記事の内容から少し話しはそれるけれど、今年の6月に会社の研修が終わり、部署に配属されました。それからというもの、今までに知らなかったいろいろなことを知って、学生の頃とは比べ物にならないほど(偏ってはいるけれど)いろんなことに興味を持つようになりました。わくわくして、もっと知りたいと思って、社外のイベントに行ってそこで出会ったのは、わたしが興味を持っていることの内のひとつ、たったひとつに対してじっくりと向き合って、真剣に取り組んでいらっしゃる方々でした。楽しいという思いの向くまま、遊ぶような感覚で行ったイベントだったけれど。その場で感じた切実さや真剣さ、その気迫に、自分が真剣になりたいことって何なんだろう、と考えさせられました。

自分が真剣になりたいこと、それを考えているときに出会ったのがこの記事です。記事全文の中に載っている作品は、どちらかというと科学技術館にありそうな感じで、メディアアートとは明確に違うとは思うのだけど。それでも、この記事に書かれていたことの中で、ずっと思っていたことがあります。それは、メディアアートをしたいなら絶対に技術が必要だ、ということ。そして技術には、デザインが必要だ、ということ。直接的でも間接的でも、今は、ありとあらゆることが、技術によって繋がっている。

最初はずっと、表現をするためのメディアとしてのウェブに興味がありました。そのうちウェブそのものを面白いと感じるようになって、ウェブの可能性を知りたいと思い始めました。そのためには、まだわたしが持っていない技術が必要で、インタフェースが直接ユーザに届くウェブには、ヴィジュアルも含めたデザインが絶対に必要。だからわたしは、足りない技術を身に付けたいと思って今の会社に入ったのだと、思い出しました。でも、いざ入ってみると、デザインに興味がない技術者がたくさんいて、そのことに驚いて、キュレーターかギャラリーのまわし者(違うけれど!)のように、展示館の話しをしたり、デザインという言葉を使っていたりします。いろいろなことに埋もれて忘れていたけれど、未だよく分からない、わたしが真剣になりたいと思うこと、の始まりは、ここにあるのかもしれません。

今はウェブだけでなく、システム開発や、アジャイルという開発手法、プログラム言語からネットワークまで、いろんなことに興味があります :-) わくわくして、楽しい。何に対してどれだけ真剣になれるのか、なりたいのか、具体的なことがまだつかめないけれど(それでもやもやしているけれど)、会社に入ってから約半年、はやくも原点復帰です。まだまだ知らないことがたくさんあって、きっといろいろなことにわくわくするけど、迷い子になったらもとに戻って、わたしが真剣になりたいこと、見つけていきたいと思います。