「驚くべき学びの世界展」

ワタリウム美術館で昨日から展示が始まった「驚くべき学びの世界展」を見にいってきました。紙や映像にまとめられた展示物が中心だったのだけど、久しぶりに行った展示会は、ほんとうに、心震える思いでした。やっぱり美術館って、特に現代アートよりの美術館って、良い意味での非日常空間への旅行みたい。行けてよかった :)
感じたことを美術館でメモしていたものを、貼りつけてみます。

わたしたちがなにかをつくろう、しようとするとき、うまくやらなければ、とか、意味はなんだろう、とか、目標を持って、とか、そういう、自分や他人に説明できるものを持たずには、何にもできなくなってる。だけど、子供たちは違う。うまくやろうとか、認められたいとか、じゃなくて、そのもの自身と向き合って遊べる。他者とか、他者に対する自分とか、彼らの中には存在しない。ああ、自由だって思う。彼らはほんとうに、自由なの。

ひかりってなんだろうとか、黒ってなにとか、暗いってなにとか、そういうことをふわふわ話してみたい。あったかいお茶をのみながら、ごろごろ寝転がりながら。

Keep at it, if you want to do something interesting!

ここ最近仕事が忙しく、まともに寝ていない日が続いています(ここ数ヶ月は基本的にずっと忙しくて、一昨々日は帰宅したのが25時、翌日出社したのが7時で退社は23時半、昨日(今日?)は朝方の4時に帰宅して5時に就寝、9時前には起きて今に至っているところ)。残業が多いということだけではなく、仕事に関することだけで他のいろんなこと(本当に、これ以上にないくらい、いろんなこと!)が重なって、しんどいなって感じたり、毎日まいにち後ろ向きなことを考えては、自分を励ます日々が、数ヶ月間続いていたけれど。
今のプロジェクトも、本当に、あと数日で大きな区切りを迎えます。ひとつの山を抜けたあとは、半日をかけてプロジェクトの振り返りがされる予定はあるけれど、今日、ふと、感じたことがあったので、久々にブログを書きます(前置きが長い?)。

昨日は帰宅が4時だったのに、なぜ今朝は9時前に起きたのかというと、1年とちょっと前から習っているフラのレッスンがあったからでした :-) 今年の9月にホイケ(発表会)があって、それがようやく一息つき、今日から新しい曲の練習ということで*1頑張って早起き!
ホイケが終わってからというもの、以前よりもずっと、フラを踊るのが嬉しくて、楽しいことになりました*2。それは何故だろうって、少し不思議だったのだけど。きっと、ホイケのおかげなんだって思います。
8月、9月は、ホイケまであまり練習時間がなくバタバタしていて、それなのに仕事も忙しく毎日24時に帰宅、という日々が続いていて、ハラウ(フラの教室)のフラシスター(同じ教室の仲間)のように、平日に自主練習をしたり、なんて出来なくて。最初のうちは振りもきちんと覚えられなくて、だけど周りはどんどん踊れるようになっているのを見て、だんだん、焦りと、言い訳と、フラに対して逃げ腰の姿勢になっていって。
フラシスターの間で踊りに差が開く中、どうにかしようと動いてくれたのは、フラシスター達でした。休日を使って、ハラウのレッスンの後に自主練習をしようと毎週のように場所を取って呼びかけてくれたり、以前一緒に練習していた上級者クラスのフラシスターに声をかけて練習を見てもらったり。平日は仕事だけ、休日はフラだけ、という日々が1ヶ月以上続きました。寝てないせいで、踊りながら頭がくらっとなったり、自主練を途中で抜けたり、まわりには散々迷惑をかけたはずなのに、ホイケが終わってから、皆から皆宛に一斉に届いたメールには。どんなにホイケが楽しかったか、どんなに皆に感謝しているか、そして、これからも一緒に上手くなっていこう、という言葉が書かれていました。
フラは心で踊るものだと、よくクム(ハワイの先生)の言葉を、教えて頂いている先生から言われます。振りのひとつひとつに、手話のように意味があり、身体全体で気持ちを表現する。舞台に立つことが決まったときは、舞台に関わってくれている人すべて、家族、恋人、友達、会社の人、フラを踊ることを間接的にでも支えてくれている人達すべてに感謝をする。感謝をしなさい、フラのイベント、舞台でフラに関係している人に会ったら、誰という区別なく笑顔で挨拶をしなさい、楽屋を使わせてもらうときは必ず最後に掃除をして綺麗にしなさい、と、何回も何回も、それこそ耳がタコになるくらい言われます。フラはハワイの古典舞踊、日本でいうと日舞と同じくらい、決まり事がたくさんある世界。まだわたしが知らない大変で厳しい部分も多いだろう世界で、できるだけ楽しい思いをしてほしい、フラを大好きになって踊って欲しい、そのために身につけておかないといけないルールを何度も教えてくれる先生に、そのルールを苦もなく実践してみんなで支え合えるフラシスターに、本当に感謝の気持ち :-)

...だいぶ話しがずれてしまったけれど :-0 仕事が忙しい中ホイケの練習をするのは大変で、皆もほとんど練習時間がとれない中練習するのはきっと大変で、それでもホイケ当日、皆で最高に楽しく踊れることが出来たのは、練習を見てくれた上級者クラスの皆のおかげでした。その場を作ってくれた皆のおかげでした。そして何よりもきっと、今フラがもっともっと楽しいのは、練習を止めないで頑張った経験があるから。そしてほんの少し、上達したという実感を持って踊ることが出来ているから。踊ることに対して、ただ振りを必死になって覚えるだけじゃなくて、少しのゆとりを持つことが出来るようになったから。それから、フラシスターとの繋がりが、前よりも強くなったから :-)

書きたいことがまとまらなくなってきたけど、日記に書こうと思っていたことは、最初にタイトルに書いてしまいました ;-p それは「Keep at it, if you want to do something interesting!(面白いことをしたいのなら、続けること!)」。踊ることはもともと好きだけど、好きだからフラを習っているのだけど、それでも大変なことってある。しんどいなって思うこともあるけど、でも、それを乗り越えたら、乗り越えなければ感じられない楽しさ、喜びがあるって、フラに教えてもらいました。面白いことをしたいのなら、大変なことがあっても、続けること! 本当に絶えられないのなら、止めることはひとつの選択肢としてあるけれど、そうでないのなら、続けること。努力してみること。そうすれば、大変なことを乗り越えたとき、そこに喜びがあるって思います。

仕事が大変なとき、嫌だな、他の仕事がしたいなって思うことがあるけれど。就職活動をするとき、多くの会社の中から(それこそ、ウェブの会社を蹴ってまで)今の会社を選んだのは、少なくとも、嫌ではなかったから。嫌じゃないことなら、もっと面白いって感じられる可能性ってきっとある。もっと面白くするために、自分の可能性を広げるために、大変なことでも、止めていないこと(=やることを選んだこと)なら続けること。継続は力とはよく言うけれど、今なら、その意味が前よりも分かる気がします :-) 大変なことがあっても、環境はすぐには変えられないけど、自分なら変えられる。人ってなかなか変わらないというけれど、わたしは、それはちょっと違うって思う。人を変えることは出来ないけど、自分を変えることなら、そんなに難しくない ;-) 自分がやる気になれば、きっと出来る。やる気になればなんでも出来るとは思わないけれど(笑)、少なくとも、やる気にならなければ、どんなことだって出来ない。それに、本当に面白いことは、きっと、大変なことを乗り越えたその先にこそあるって、今は思います ;-) Keep at it, if you want to do something interesting!

*1:Fulaの名曲、He U'iを踊ることになりました! :-)

*2:油断していると、歯磨きしながら踊っちゃうくらい(笑)

「生存のエシックス」


京都国立近代美術館で開催されている、生存のエシックスへ行ってきました。「生命、医療、環境、宇宙における芸術的アプローチ」ということで、思いっきりアート! という感じのアートではなくて、面白かったです。偶然出会えたSZの前田さんに解説してもらいながら見ることが出来たのも、すごく良かったな :-) いくつか感じたことを書き留めておきたい作品があったので、箇条書きにしてみます。

  • 「蜂」プロジェクト

蜂の高度な嗅覚を使って、肺がんや糖尿病を患っているひとを見分ける、という診断器具。口臭を嗅ぎ分けるように訓練されている蜂が、丸いガラスのオブジェの中に入っている状態で、そのオブジェの中に息を吹き込んで使うのだそう。蜂が寄ってくれば、病気だと判断する、という、不思議な作品。同じ原理で「蚊」を使った試みもあるみたいです。男女ふたりが、蚊が入っている箱の中に腕を入れて、同じ蚊が寄ってくれば、相性がいい、とか。もちろん冗談です ;-p

  • バイオミュージック 水・森・生命・音

丸太に特殊なマイクが刺さっていて、ヘッドホンを耳にあてると、とんとん、という音がする。木の中の、キクイムシが木を食べている音、なのだそう。この作品の解説を聞いていて、どういう流れでこの話しになったのかは覚えていないのだけど、音って不思議、と思う話しがありました。例えば、水の音。風の音。魚が泳いでいる音。これって全部、なんの音だろう。空気と物体との摩擦? 心臓の音は、血液の流れる音は、その音はどこから来ているんだろう。

  • 光・音・脳

頭に機器をつけて、チューブ型の空間の中に入り、あおむけになり、鑑賞する作品。音と光がゆっくりと変化していくのだけど、頭につけた機器で前頭葉の脳血流を測定し、心地よい、と感じる音と光を探して、映し出してくれる、というもの。測定した脳波や、鑑賞者が見ている色は、誰でも外のモニターで自由に見ることができて、この人はずっと一定を保っている、とか、この人はすごく揺れ幅が大きい、とか、見られるのも面白かったです。わたしはカラフルな色の変化が最初から最後まで続いていたのだけど、うすい色や青色、黄色が心地よくて、機器もそういう結果を出していたみたい。でも、そう感じたり計測したからと言って、青ばかりが続いたり、黄色ばかりが続いたりはしなかった。心地よい状態って、絶えず変化しているんだって、知りました。一定のままじゃ、飽きてしまったり、とかで、心地よいもの、ではなくなってしまう。ひとは、常に変わり続けていくものなんだ、って。来週からはシステムを入れ替えて、不快と感じる音や色を継続させる、不快マシーンにするのだとか。今週中に見られてよかった...! :-0 そうそう、あと、コルビジェの椅子! すごく寝心地がよかったです! :-) この椅子に座りにいくだけでも、価値があると思います(なんて言ったら、制作者の皆さまに突っ込まれそうだけど)。

  • 遺伝子組み換え劇場

ティーブ・カーツ氏の奥様が急死したのを受け、氏が疑われ、無罪の判決を受けるまでに5年の歳月がかかったとのこと。氏が疑われたのは、生命科学分やなどの、一部の企業に独占された専門技術や特権の再分配を目指す活動を行ってきていたから。例えば、ひとつの企業が、何年後には枯れてしまうように遺伝子を組み換えた苗を独占販売している。購入者は、一定の期間ごとに常に苗を買い続けなければいけないようになってしまう。その苗に合う肥料を売っているのも、同じ会社。そういう現状があるということを、世間に知らせたい。そういう氏の活動、遺伝子組み換えに関する研究をしているということに対する、世間の偏見の目。思い込み、偏見が持つ影響力。イメージの持つ力、捕われやすさ。はっと、させられてしまう。

牛が殺されるときに、お腹のあたりを毛布でくるんでひっぱりあげてから殺すと、そうしないで殺すときよりも、牛が怖がりにくい、という研究結果があるらしいです。それで、人が無重力状態になったとき(というのは、文字通り地に足がつかない感じ、最初は身体がばらばらになった気分になるそう)に、落ち着くために、毛布を巻いてみたらどうか。毛布じゃなくて、バルーンならどうか、紐ならどうか、ということを試した実験映像。ほんというと、解説してもらった、牛の話しのが衝撃的でした :-0

  • 地上環境におけるセキュリティ・ブランケットの機能を有する器具の試作(2009-2010)より 試作品「厚く重い箱」

厚い木の箱の中に、鑑賞者が入れる作品。膝を抱える座り方で中に入って、腕は左右に出っ張っている腕置きに置いて、目の前には、座った時の頭の高さくらいの木の板が立っていて。入ったら落ち着くということだったけど、わたしは全然落ち着かなかったです! 箱の効果はともかく、お客さんがたくさん寄ってきて見られてたら、落ち着かないよ...! :-0

  • 盲目のクライマー/ライナスの散歩

薄い三角形の木の板が組み合わされて作られた構造物。その上にのぼることが出来たり、下をくぐり抜けることが出来たり。決められた道筋もないし、作品の隣には「のぼることが出来ますが、安全を約束された遊具ではありません。無理はしないでください。自分の心地良いと思える場所を探してください」という内容の張り紙。壁には蛍光灯がたくさん並べてあって、暗くなったり、明るくなったり。のぼったりくぐったりしてみたけれど、楽しかった! :-) 子ども達も遊んでいて、身軽だなぁって思ったり。最初は高いところを目指したくなるけど、しっくりくる場所が見つかったら、そこに座り続けたいって思ったり。三角形を組み合わせているだけなのに、とても丈夫で、構造体ってすごいって思いました。角度が少しでもずれたら成り立たない世界、なのにかちっと合わさると、こんなに丈夫。不思議で、なんだかすごい。

  • Trans-Acting 二重軸回転ステージ/浮遊散策

ふたつのドアが立っている、大きな丸い木の円盤がゆっくり、がたごとと回っている作品。円盤の上に乗ることが出来たのだけど、乗っている感覚が、すごく好きでした。天井にカメラがついていて、上から俯瞰した自分達の姿が壁に映し出されたり、円盤に映像が投影されたり。円盤は水平にまわっているようで、実はぐらぐらと揺れていて、平衡感覚を失いそうになったり。向かってくるドアに向かって、ゆっくりと歩くと、向こうもこっちに近付いてきて、近付き合うスピードがいつもと違っていて、楽しかったです。投影される映像はいろんな種類があったのだけど、木漏れ日の映像がすごく好きでした。実際には木漏れ日なんてないのに、そういうイメージの映像が投影されるだけで、なんとなく清々しく、気持ちの良い気分になるって、不思議。

  • アクアカフェ @KCUA Café

室内ではなく、外で組み立て真っ最中だったアクアカフェ。竹を組んで、そこに土を重ねているひとたちがいて、見ていたら気さくに声をかけてくださって、少しお話しができました :-) この建物の材料となる竹も、土も、水も、すべて0円なんですよ、と。土は、なんと江戸時代の土。水は、近くの蛇口からホースでひっぱってきた水道水。高速道路を立てるのに、壊されていく古い建物の土を、もらってきたのだそう。粘度のような土で(正確になんという土なのか、覚えていないけれど)、水でこねたばかりの土は柔らかいのに、乾燥したら、びくともしないくらい固くなる土。作りかけのカフェの中に入らせてもらったら、あたり一面が土のにおい。完成したら、お茶会が催されるそうです :-)

そうそう、展示会場でぽつりぽつりと見かけた「盲目のひとと、透明人間が、美術館で出会ったと、せよ」という内容の言葉(正確な言葉は忘れてしまいました...)の意図、聞き忘れてしまった :-0

MacOSXで.bashrcに書いたパスを通す方法

パスを通そうとしてハマったついでに、いろいろ教えてもらって「ほお!」と思ったことがあったので、忘れても大丈夫なようにメモ :-)

今回初めて知ったのが、パスがどのタイミングで読まれているか、というお話し。まず、ログインすると、ログインシェル*1が起動されます*2。そのログインシェルがbashだった場合*3、/etc/profile*4→.bash_profile(ローカル*5)→.bashrc(ローカル)→/etc/bashrcの順番で読み込まれます。

そこで今回パスを通そうと$HOME/.bashrcにexport PATH=$PATH:***と書いてみたけど、通らない :-0 なぜだろうってなっていたら、この記事を教えてもらいました(参考)http://memo358.blog18.fc2.com/blog-entry-30.html)。

これによると、$HOME/.bash_profileに$HOME/.bashrcを見るように書いてあげないと、$HOME/.bashrcを見てくれないらしいです。そこで、参考記事にある通り、$HOME/.bash_profileに下記を追記。そうしたら、ちゃんと$HOME/.bashrcに書いたパスが通るようになりました。よかった! :-)

if [ -f ~/.bashrc ] ; then
. ~/.bashrc
fi

ちなみにパスを通すというのはどういうことかというと、例えば/abc/直下にあるd.exeというファイルを便利に起動するために、/abc/へのパスを通しておくと、コマンドで叩くときに/abc/d.exeとしなくても、d.exeだけで起動してくれます。これは、d.exeというファイルがあるかどうか、パスを設定しているすべての場所を探して、存在すれば起動してくれる、ということをしてくれるからなのだそう。つまり、パスを設定すればするほど、探しまわる範囲が広くなる、ということらしいです。ほお! :-0



おまけメモ【ログインシェルを確認する方法】
システム環境設定→アカウント→左下の鍵でロック解除→(マイアカウント上で右クリック)→詳細オプション→ログインシェル
参考)http://d.hatena.ne.jp/shinya_ohtani/20090208/1234061692

*1:LinuxUNIXのユーザがログインしたとき、最初に起動するシェルのこと

*2:ちなみにWindowsのシェルはコマンドプロンプトのみらしいです(最近はPowerShellというのも出てきたみたい)。UNIXはCシェルとかKシェルとかたくさんあるのだそうです(bashはもともとBシェルという名前だったのだとか)。

*3:たいていはbashのようです。コアな人は多機能なtcshとかを使うのだとか。

*4:/etc/の下はアカウントに関わらず全ユーザに共通して反映される設定ファイルが置いてある場所。たぶん。

*5:"/Users/アカウント名/"の直下

Android SDKをインストールする方法

ちょっとコケたので、忘れてもいいようにメモ!
Macに「eclipse」、「Android SDK」をインストールしてAndroid開発環境を整える。」を参考にしながらインストールを進めていたら、SDKの設定のところで止まりました。Eclipse→環境設定→AndroidSDKロケーションを設定しても、No target avalilableのまま。あれ? :-0
そこで、「Macでandroid開発の準備」を参考に、android-sdk→tools→androidをダブルクリック。Android SDK and AVD Managerが自動で起動するので、Available Packagesを選択(するのだと気付くのに、数分かかりました...)。チェックボックスにチェックを入れてInstall Selectedをクリックで、無事インストールできました :-)
ちなみにAndroidアプリ開発の環境作りは、「Mac上にAndroidアプリの開発環境を作る」を参考にしました。

androidのemulatorの画面の向きの切り替え方法

F11、F12で縦横の切り替えができます、と本には書いてあるけど、MacBookだと音量の上げ下げになってしまう、と思っていたら、関連記事を見つけたのでメモ :-)

マックの(? ノート系だけ?)場合だと F11 は「音量下げる」になっているから、「control + fn + F11」を押せばいい。
 ただし、atok を入れていると「文字パレット」も同時に表示されちゃうので面倒である。
 この場合は atok の「カスタマイザ」から「キーカスタマイズ」を選び、「control + fn + F11」で「文字パレット」を表示しないように設定するとよい。

http://fortcollins.blog77.fc2.com/blog-entry-561.html

ちゃんと向きが切り替わって嬉しかったけど...MacBookでCtl+fn+F11ってものすごく打ちにくい! 両手使わないと押せません :-0

I'm afraid, but I mustn't be afraid.

数日前、部門の飲み会で先輩と話していて、「知る」から「気付く」に変わったことがありました。ここ数日、いろいろと動きながら、気付くことがありました。そんなことを書き留めておこうと思う :-)

部門の先輩と話しながら「気付いた」こと、それはSIという仕事の持つ可能性とその大きさ。入社当時は、本当はSIなんて全然興味がなくて、ウェブの仕事が出来ればいいな、ウェブの技術を習得したいな、なんて思うばかりだったけど。いざ自分がやりたいことってなんだろうって考えたり、とか、今の会社で必死に会社を変えようとしている人達を見ていたり、とか、するうちに、SIに興味を持ち始めるようになりました。
だけど、SIってなんだかもやもやしていて、よく分からない。会社の方針がまとめてある冊子を読みあさったり、その冊子の読書会を企画したり、社内SNSで先輩方に質問を投げかけてみたり、知ろうとしては見るけれど、やっぱりまだ分からない。知識として「知る」ことは簡単だけど、それに実感がともなわない。ああそっか、目指すべき場所、出来ること、やるべきこと、SIの持つ力ってこれなんだ、って感じない。
そんなことを思いながら、年初からずっともやもやしていたのだけど、先日の飲み会で、社会人歴十数年目の先輩と話しながら、突然気付きました。そう、「SIerは世界を変えられる」ことに(あれ? どこかで似たようなこと、聞いたことがある言葉)。考えてみれば、ごく自然なことでした。ひとつの会社の根幹となるシステムをSIerに託されることだってある。根幹を変えるって、その会社そのものを変えてしまうことになる。会社が変わるって、社会が変わっていくことになる。社会が変われば世界が変わる。どうしてこんな単純なことに、気付かなかったんだろうって、今は思うけれど。その可能性がある仕事なんだって思う。そんな可能性を持っている仕事は、きっとたぶん、絶対に、SIだけじゃない。どんな仕事も、規模や程度や広まりやすさや影響力の大きさの差はあれ、そうなんだろう。
だけど、SIはいろんな仕事の中でも特に(政治家ほどではないけど、例えば、たとえば、お弁当に具材を詰める仕事よりは)直接世界を変えることが出来る仕事かもしれない(そして、しつこいけれど、もちろんデザインだって)。大学生のとき、就職活動をしていて言われた言葉でもあるけれど、可能性って持っているだけじゃ花開かない。可能性って、範囲が広ければ広いほど叶わない。そこに可能性がある、その可能性を全面に押し出して実現してしまうためには、きっと同じくらい大きな壁がある。その壁はあまりに厚くて、持ち得る可能性が花開くときがその先にあるっていうことを忘れてしまうくらい、信じられなくなってしまうくらい、その壁はあまりに厚くて、きっと、いつの間にか人々は「そんなことは出来る訳ない」なんて思うようになって。そうしてその可能性は閉ざされてしまう。
今の会社に入社すると決めたとき、わたしはもうひとつ、行きたかった会社に入ることで得られる可能性を捨てたんだって思った。先の言葉を言っていた人に「可能性は狭めなければ叶わない」という言葉も言われたけれど、それは、ものすごく正しい(今の会社に入社することを決めたときに思ったことも、ひとつの側面から見れば、とても正しい)。そして、続きがあるって今は思う。つまり「可能性からいろんなことを剥ぎ取って、削り取って、狭めなければ、具体的にはならない。具体的にならなければ、手に負えなくなって叶うこともならない。だけど、叶ったときには、一度狭めたと思っていた可能性は、本当はそうではなくて、削り取ったと思っていた可能性とどこかでつながっている」ということ。可能性を削ることを、怖がってはいけない。怖がっていたら、いつまでたっても可能性は可能性のまま。小さく小さく、削り取って、叶えれば、きっと本来持ち得ている大きな大きな可能性は、また向こうから近付いてきてくれる。例えば、ひとつの可能性から別の部分を取り出して、叶えている人達がいて、その人達と持ち寄って大きな大きなものにしていくことだって出来る。例えば、そんなイメージ。そんなことないって思うときがある人も、今そう思っている人も、疲れて休憩している人も、やる気を持って進んでいる人も、可能性を今まさに花開かそうとしている人も。「すべての仕事は、会社を、社会を、世界をもっと良くできる」。そんな可能性を、どの人もどの人も、気付いて持っていれば、世界が良くならないなんてこと、ある訳ない。
今ならSIって何だろうっていう質問に、自分なりの答えが出せる気がする。夢のような「SIとは」のわたしの言葉の先は、どこかのオフィスや、カフェや、勉強会や、飲み会の場で、いろんなSIerの人と会話をしていければいいなって思う :-)

それから、ここ数日、いろいろと動きながら、気付いたこと。それはいろんな人から受けた影響が、すべてわたしの身になっているということ。例えば、いまわたしは会社で「若手の会」という、会社について考える場を作ろうとしているけれど(次回#3は5.26 wed. 18:30からです!)、そういうことがごく自然に出来ているのって、絶対に、社内/社外勉強会で、場を作ろうとしている人達の姿を見てきたおかげ。例えばこういうときどうしたら良いのか、どう動いてどうするのか、そういうことを、まだまだ下手だけど、やり始められているのって、絶対に、そのおかげ。思いを作る人、場を作る人、会場の設営や参加者の受付や、そういうの全部ぜんぶ、会社を越えて知り合えた人達の姿を見てこられたおかげ。それから、そういう場で話しをされる人達の言葉や姿、そういうことも、全てそう。それは業務外のことだけでなく、業務内でも。社会人になって初めての会社が今の会社で良かった、それから特に、今の上司の下で良かった。どの先輩社員、同期の姿も全部、わたしに影響を与えてくれていると思う。時折、自分がすることに、そういう人達の影が見えることがある(それはまるで、家族や恋人の姿がそうなるのと同じように)。周りで頑張っている人、考えている人、すべての人にありがとうの気持ちを。いつかわたしも、そういう気持ちを周りの人に返せるようになれるように :-)

そして最後、ここ数日、いろいろと動きながら気付いたこと(ふたつめ)。それは、意見をすること、言葉を発することが怖くなるようなこと。
まだまだ自分が何も分かっていないということには、薄々気付いているけれど(それを認めようと努めているけれど)、SIの可能性を気付かせてくれた先輩よりも、社会人歴が長い先輩と話しながら、気付いたこと。分かっていないことからくる、安易な発言は誰かを傷つけることがあるかもしれない、ということ。分かっていないことすら分かってもらっているということ。だからこそ、傷つけるかもしれない、ということ。
それは、例えばこういう話し。ひとつの出来事に対して、わたしが感じた不満を、先輩に伝えたとする。先輩は、わたしの不満をとてもよく分かってくれる。なぜならそれは、先輩自身も過去に感じたことがある不満だから。だから、先輩はわたしを責めたりしない。そのかわりに、過去、自分が感じた不満を後輩にも感じさせてしまっていることに、自分を責める。先輩は、わたし達後輩が考えているよりも、もっとずっと、わたし達のことを分かってくれているんだって思った出来事。わざわざ伝えなくても、わたし達がどう思っているかということにはきっと気付いているんだって、思う出来事。だったら、わたしがわざわざ言う必要なんてない。いちいち先輩が出来ていないことを指摘して(そしてもちろんそれは、わたしがいつか先輩と同じ立場にたったときにも、簡単に出来ることではないことで)、先輩を凹ませて、どうするんだろう? 伝え方もあるけれど、伝え方だけの問題じゃない。分かっていないことを分かられるのが怖い、稚拙なことを言って、なんて分かっていないんだろうって思われるのが怖いって思うこともあるけれど、そんなのとっくに包み込まれてる。そんな風に思う出来事。それでも、言ってくれてありがとうって言ってもらえる、改善できることはしたいから言って欲しいって言ってもらえる。そんな風に言ってもらえるからこそ、意見するのが怖くなる。思っていることを、言ってもいいものかって躊躇う。きっと先輩はそんなこと、わざわざわたしが言わなくても知っている。わたしの言葉に返してくれる「本当にそうだと思う、ごめん」という言葉が、最初の頃とは違う言葉に聞こえる。その次に返してくれる、こういうことだよっていう先輩の言葉を聞きながら、わたしはなんて、馬鹿なことを言ったんだろうって、後悔しそうにもなったり。もう何も言わない方が良いんじゃないかって思って悩んで。何か意見するのが怖くなって。だけど、やっぱりそうじゃないんだって、思う。先輩を責めたい訳でも、傷つけたい訳でもない、もっとチームをよくしたい、良い仕事をしたい、そんな風に思いながら、稚拙でもそのときの自分が一所懸命に考えたことを、自分が認めてあげること。全然役にたってなくても、凹ませてしまうことになってしまっても、一緒に考えたい、今持っているもの総動員して、今のわたしに出来る精一杯で考えてるっていう気持ちだけでも伝えることに、意味がないとは思わない。
何かを伝えることって怖い。動き始めることって怖い。だけど、何も言わないことは何も考えていないこと、何もしないことは何もする気がないこと。
I'm afraid, but I mustn't be afraid.