I'm afraid, but I mustn't be afraid.

数日前、部門の飲み会で先輩と話していて、「知る」から「気付く」に変わったことがありました。ここ数日、いろいろと動きながら、気付くことがありました。そんなことを書き留めておこうと思う :-)

部門の先輩と話しながら「気付いた」こと、それはSIという仕事の持つ可能性とその大きさ。入社当時は、本当はSIなんて全然興味がなくて、ウェブの仕事が出来ればいいな、ウェブの技術を習得したいな、なんて思うばかりだったけど。いざ自分がやりたいことってなんだろうって考えたり、とか、今の会社で必死に会社を変えようとしている人達を見ていたり、とか、するうちに、SIに興味を持ち始めるようになりました。
だけど、SIってなんだかもやもやしていて、よく分からない。会社の方針がまとめてある冊子を読みあさったり、その冊子の読書会を企画したり、社内SNSで先輩方に質問を投げかけてみたり、知ろうとしては見るけれど、やっぱりまだ分からない。知識として「知る」ことは簡単だけど、それに実感がともなわない。ああそっか、目指すべき場所、出来ること、やるべきこと、SIの持つ力ってこれなんだ、って感じない。
そんなことを思いながら、年初からずっともやもやしていたのだけど、先日の飲み会で、社会人歴十数年目の先輩と話しながら、突然気付きました。そう、「SIerは世界を変えられる」ことに(あれ? どこかで似たようなこと、聞いたことがある言葉)。考えてみれば、ごく自然なことでした。ひとつの会社の根幹となるシステムをSIerに託されることだってある。根幹を変えるって、その会社そのものを変えてしまうことになる。会社が変わるって、社会が変わっていくことになる。社会が変われば世界が変わる。どうしてこんな単純なことに、気付かなかったんだろうって、今は思うけれど。その可能性がある仕事なんだって思う。そんな可能性を持っている仕事は、きっとたぶん、絶対に、SIだけじゃない。どんな仕事も、規模や程度や広まりやすさや影響力の大きさの差はあれ、そうなんだろう。
だけど、SIはいろんな仕事の中でも特に(政治家ほどではないけど、例えば、たとえば、お弁当に具材を詰める仕事よりは)直接世界を変えることが出来る仕事かもしれない(そして、しつこいけれど、もちろんデザインだって)。大学生のとき、就職活動をしていて言われた言葉でもあるけれど、可能性って持っているだけじゃ花開かない。可能性って、範囲が広ければ広いほど叶わない。そこに可能性がある、その可能性を全面に押し出して実現してしまうためには、きっと同じくらい大きな壁がある。その壁はあまりに厚くて、持ち得る可能性が花開くときがその先にあるっていうことを忘れてしまうくらい、信じられなくなってしまうくらい、その壁はあまりに厚くて、きっと、いつの間にか人々は「そんなことは出来る訳ない」なんて思うようになって。そうしてその可能性は閉ざされてしまう。
今の会社に入社すると決めたとき、わたしはもうひとつ、行きたかった会社に入ることで得られる可能性を捨てたんだって思った。先の言葉を言っていた人に「可能性は狭めなければ叶わない」という言葉も言われたけれど、それは、ものすごく正しい(今の会社に入社することを決めたときに思ったことも、ひとつの側面から見れば、とても正しい)。そして、続きがあるって今は思う。つまり「可能性からいろんなことを剥ぎ取って、削り取って、狭めなければ、具体的にはならない。具体的にならなければ、手に負えなくなって叶うこともならない。だけど、叶ったときには、一度狭めたと思っていた可能性は、本当はそうではなくて、削り取ったと思っていた可能性とどこかでつながっている」ということ。可能性を削ることを、怖がってはいけない。怖がっていたら、いつまでたっても可能性は可能性のまま。小さく小さく、削り取って、叶えれば、きっと本来持ち得ている大きな大きな可能性は、また向こうから近付いてきてくれる。例えば、ひとつの可能性から別の部分を取り出して、叶えている人達がいて、その人達と持ち寄って大きな大きなものにしていくことだって出来る。例えば、そんなイメージ。そんなことないって思うときがある人も、今そう思っている人も、疲れて休憩している人も、やる気を持って進んでいる人も、可能性を今まさに花開かそうとしている人も。「すべての仕事は、会社を、社会を、世界をもっと良くできる」。そんな可能性を、どの人もどの人も、気付いて持っていれば、世界が良くならないなんてこと、ある訳ない。
今ならSIって何だろうっていう質問に、自分なりの答えが出せる気がする。夢のような「SIとは」のわたしの言葉の先は、どこかのオフィスや、カフェや、勉強会や、飲み会の場で、いろんなSIerの人と会話をしていければいいなって思う :-)

それから、ここ数日、いろいろと動きながら、気付いたこと。それはいろんな人から受けた影響が、すべてわたしの身になっているということ。例えば、いまわたしは会社で「若手の会」という、会社について考える場を作ろうとしているけれど(次回#3は5.26 wed. 18:30からです!)、そういうことがごく自然に出来ているのって、絶対に、社内/社外勉強会で、場を作ろうとしている人達の姿を見てきたおかげ。例えばこういうときどうしたら良いのか、どう動いてどうするのか、そういうことを、まだまだ下手だけど、やり始められているのって、絶対に、そのおかげ。思いを作る人、場を作る人、会場の設営や参加者の受付や、そういうの全部ぜんぶ、会社を越えて知り合えた人達の姿を見てこられたおかげ。それから、そういう場で話しをされる人達の言葉や姿、そういうことも、全てそう。それは業務外のことだけでなく、業務内でも。社会人になって初めての会社が今の会社で良かった、それから特に、今の上司の下で良かった。どの先輩社員、同期の姿も全部、わたしに影響を与えてくれていると思う。時折、自分がすることに、そういう人達の影が見えることがある(それはまるで、家族や恋人の姿がそうなるのと同じように)。周りで頑張っている人、考えている人、すべての人にありがとうの気持ちを。いつかわたしも、そういう気持ちを周りの人に返せるようになれるように :-)

そして最後、ここ数日、いろいろと動きながら気付いたこと(ふたつめ)。それは、意見をすること、言葉を発することが怖くなるようなこと。
まだまだ自分が何も分かっていないということには、薄々気付いているけれど(それを認めようと努めているけれど)、SIの可能性を気付かせてくれた先輩よりも、社会人歴が長い先輩と話しながら、気付いたこと。分かっていないことからくる、安易な発言は誰かを傷つけることがあるかもしれない、ということ。分かっていないことすら分かってもらっているということ。だからこそ、傷つけるかもしれない、ということ。
それは、例えばこういう話し。ひとつの出来事に対して、わたしが感じた不満を、先輩に伝えたとする。先輩は、わたしの不満をとてもよく分かってくれる。なぜならそれは、先輩自身も過去に感じたことがある不満だから。だから、先輩はわたしを責めたりしない。そのかわりに、過去、自分が感じた不満を後輩にも感じさせてしまっていることに、自分を責める。先輩は、わたし達後輩が考えているよりも、もっとずっと、わたし達のことを分かってくれているんだって思った出来事。わざわざ伝えなくても、わたし達がどう思っているかということにはきっと気付いているんだって、思う出来事。だったら、わたしがわざわざ言う必要なんてない。いちいち先輩が出来ていないことを指摘して(そしてもちろんそれは、わたしがいつか先輩と同じ立場にたったときにも、簡単に出来ることではないことで)、先輩を凹ませて、どうするんだろう? 伝え方もあるけれど、伝え方だけの問題じゃない。分かっていないことを分かられるのが怖い、稚拙なことを言って、なんて分かっていないんだろうって思われるのが怖いって思うこともあるけれど、そんなのとっくに包み込まれてる。そんな風に思う出来事。それでも、言ってくれてありがとうって言ってもらえる、改善できることはしたいから言って欲しいって言ってもらえる。そんな風に言ってもらえるからこそ、意見するのが怖くなる。思っていることを、言ってもいいものかって躊躇う。きっと先輩はそんなこと、わざわざわたしが言わなくても知っている。わたしの言葉に返してくれる「本当にそうだと思う、ごめん」という言葉が、最初の頃とは違う言葉に聞こえる。その次に返してくれる、こういうことだよっていう先輩の言葉を聞きながら、わたしはなんて、馬鹿なことを言ったんだろうって、後悔しそうにもなったり。もう何も言わない方が良いんじゃないかって思って悩んで。何か意見するのが怖くなって。だけど、やっぱりそうじゃないんだって、思う。先輩を責めたい訳でも、傷つけたい訳でもない、もっとチームをよくしたい、良い仕事をしたい、そんな風に思いながら、稚拙でもそのときの自分が一所懸命に考えたことを、自分が認めてあげること。全然役にたってなくても、凹ませてしまうことになってしまっても、一緒に考えたい、今持っているもの総動員して、今のわたしに出来る精一杯で考えてるっていう気持ちだけでも伝えることに、意味がないとは思わない。
何かを伝えることって怖い。動き始めることって怖い。だけど、何も言わないことは何も考えていないこと、何もしないことは何もする気がないこと。
I'm afraid, but I mustn't be afraid.