考えない時

先日、久方振りにゆったりとした時間を過ごしました。と書いてる今日も一日のんびりして、お日様にぽかぽかしたり、友達と長電話したり、後輩の相談にのったり、ふかふかのお布団でお昼寝したり、幸せでした。
この前はお日様にぽかぽかはせず、ちょっと遠出をして詩仙堂を訪れたら、時間帯が遅かったのと、紅葉の季節ではなかったというのがあって、人がそんなに多くなくてほこほこと和みました。浴衣を着た方や、カメラを手に興味津々の外国人の方もいて、ちょっとにぎやかだったりするのも静かすぎることがなく、なんだか落ち着きます。
詩仙堂のお庭では、おばあさんが一人、熊手を持って手入れをしていて、にこにことお庭のことをいろいろ教えてくれました。そっちの花は何の花で、ここは刈ってやらないと芽が生えてこないんだよ、とか。茶室の側に咲いているツバキを指して、あんなええの見逃したらあかんよ、と教えてくれたりとか。そう言われて見に行ったツバキはとっても綺麗で、思わず写真を一枚 :-)

ピントがあっていないけど、こっちの黄色いお花はサンシュユというらしいです(おばあさん情報)。

おばあさんは、ほぼボランティアのようなものとしてここにいるんだけど、でも、身体を動かせるときは動かしておきたいし、何よりもお庭がとっても好きだから、とおっしゃって、せっせと手入れを続けられていました。ここでも「好きだから」という理由を発見。好きだから、は人に伝えづらいし言葉にしづらいし、とっても曖昧な理由だけど、でも、とっても強靭な理由でもあると思う。

詩仙堂の中で、お庭を見ながらちょっと緩んだ畳の上に座っていると、何も考えない時を過ごすことが出来ました。乗り物に乗っていて、目的地に着くまではぼんやりとしていても許されるあの感じ、せっつかれるものが何もなく、ゆるやかなことだけを感じる時間、あんな感じの心地よさがあるなぁと思います。いろいろなことを日々考えるけど、何も考えないで、ぼんやりと山を見たり、他の人が話している声を聞くともなく聞いていたり、一人でいる寂しさとか、多人数でいる緊張感とか、そういうのがなにもない、寂しくもなく、煩わしくもなく、心安らぐ人と一緒にいるときともまた違う、何かの狭間にいられるなぁと思います。一人でいることの安堵感と、一人ではないという安堵感がうまく重なる場所なのかもしれません。

今度上の方へ遠出をするときは、修学院離宮に行ってみたいなぁ。予約が要るから事前準備なしでは行けないけど、京都にいる間に、絶対に一度は行ってみたい場所のひとつです。


上の写真は、周囲が薄暗くなってきたとき、道に迷って偶然出会った桜。今住んでいるところの近くの公園も、桜が満開でとってもきれいです。窓から見るたびになんだか満足してしまう(笑)。