ブログ・コミュニケーション

ブログを書くということは、ノートに日記を書くことなどを例とする「自分とその周り」の人だけが関係する行為ではなくて、望もうがそうでなかろうが、全世界の人に向かって情報を発信していることだ、と言えます。だから、いろいろな人から意見をもらえたり、そこから視野が広がったり繋がりを持ったり、多くの可能性を持っているのだ、と。そういう考え方を知った時に、そうだなぁと思い、今までもそう思い続けてきたけれど、もしかすると、そうではないかもしれない、と今日、突然思いました。
情報があふれているインターネットの中では、石と玉が混在していて、玉は自然と人の目に留まることで選り分けられていき、そうでない石は淘汰されていくのだと梅田さんの本で読んだことがあります。多くの場合、石と玉があれば石の割合が多いはずで、梅田さんの言う通りなら、その多くの石は淘汰されていきます。石か玉か、というその判断は、インターネットの世界では多数決です。多くの人が関心を持てば玉、そうでなければ石。例えば、このブログのこの記事の内容は石なのか、それとも玉なのか、という問いを持ったとき、おそらく多くの人にとっては石になるので、石だと判断されます*1。でも、ただ、わたしだけにとっては(もしかするとわたしを含む他の数人にとっては、になるかもしれないけれど、それは誤差の範囲)確かに玉です。自分が書く文章が他の多くの人にとって意味のあるものになるとは思っていないけれど*2、自分の考えをまとめる、という点で、自分のためになっていることだけは確かです。
だから、どんなに石であろうが、ブログを書くという行為は、まったく無駄な訳ではないと思います。書いている人がいる以上、その人にとってそれは何らかの意味があることで、例えそれが石と呼ばれても、書いた本人にとっては玉であると思うのです。
けれど、いくら石が書き手を含む少人数の誰かにとって玉であろうとも、コミュニケーションの場としてブログを活用できる、ということが出来るのは、多くの人にとって玉だと認められた玉だけの特権ではないかと思うのです。多くの人が関心を寄せなければ、石として淘汰されていく情報。情報の波の中で、自分が興味があることを書いている記事がもしあったとしても、それにたどり着くためには、検索エンジンを使います。その検索エンジンが表示するのは、まず、玉から。検索エンジンに代表されるgoogleの玉の選び方は、多くの人に注目(リンク)されているかどうか、です。例えどこかの誰かにとっては玉である情報も、検索エンジンによって石と判断されると、それはないのとほぼ等しい状況が生み出されます。
そういう状況で、果たしてブログはコミュニケーション手段に成り得るのでしょうか(もちろん、一部を除いて)。コメントもトラックバックも寄せられず、書き手の発信だけのワンウェイになっているブログは多々見かけます。また、多くの人と繋がる可能性がある、とは言えど、コメントがあっても、コメントを書いた人はブログを書いた本人と知り合いであることが多い、という面もあります(もちろん、一部を除いて)。このブログもそうで、コメントを下さる方が純粋にブログで知り合った方、ということは少ないように思います*3。別の場所で会っている、あるいは直接的ではなくても何らかの別の関わりがある人が多いような気がします。多くの場合、ブログは「全世界の人に見てもらえる可能性があり、繋がりや広がりを持てる可能性がある」だけ、つまり、可能性止まりになっているように思うのです。
対面のコミュニケーションにおいて、わたしは最近、自分から、を心がけるようにしています。自分から行動してその場所へ行ってみる、自分から行動して話しかける、自分から触れてみる、動いてみる、体験してみる。そういうことをした場合、対面でいると、必ずレスポンスが返ってきます。初めて会う人であったとしても、すぐ目の前にいて「こんにちは」と話しかけているのに、無視されるということはまずありません。話しかけると必ず何らかの返事が返ってくるし、触れてみると必ず何らかの感触が伝わってくるし、動けば必ず動いたぶんだけ、今までとは違う場所にいます。
でも、ブログでは必ずしもそうとは言えません。記事を書いても何の反応もないときや、誰かのブログにコメントをしても書き手の反応がないこと、そういうことがしばしばあります。それが自分自身のメモ書きや、考えをまとめるための行動であるなら、反応は必ずしも必要なものではありません。けれど、全世界の人を相手にしたコミュニケーションの手段、として考えると、どうでしょうか。コミュニケーションは相手がいて、何らかの意思疎通をしてこそ成り立つものです。対面であることに比べて、ブログをコミュニケーションの手段として捉えるには、あまりにストレスが溜まりやすいように思います。相手に意見を求めているのに、返ってこない。全世界の人に向けて発信しているはずなのに、誰からもレスポンスがない。それは、SNS(例えば、mixi)に依存してしまったり、携帯のメールの返信の有無を異様に気にしてしまう人が、コミュニケーションでは当然あるべきはずのレスポンスがないことにストレスを感じてしまう、ということに酷似しています。
メールを例にして見てみると、もう少し考える切欠が生まれます。直接相手のアドレスを打ち込んで送ったメールは、発信者も受信者も一対一です。だから、メールを送られた相手は返事をしなければと思う。けれど、これがメーリングリストにメールを送った(一対多)とすると、コミュニケーションにはならなくなる場合が多くあると思います。つまり、情報を受け取るだけで、それに対するレスポンスをしなくなる、ということ。「自分」に向かって相手が情報を発信してきている、という感覚が薄くなるのかもしれません。
mixiで日記を書いて、友達からのコメントがないことに対してあまりにストレスを感じている人(あるいは、携帯のメールの返信を気にしすぎる人)は、SNSやメールを確かなコミュニケーション手段として見ているからではないかと思います。でも、社会において大切なことは直接会って話す、それが無理ならせめて電話をする、ということが当たり前に思われているということに反映されているように、それらは確実なコミュニケーション手段ではないような気がします。ブログも、そうです。いくらブログが全世界の人に発信されているといっても、だからといって、全世界の人と知り合いになっている人はいません。ブログがコミュニケーションの手段として、対面でのコミュニケーションと同等(あるいはそれ以上)の手段であると言い切るのは、まだ時期尚早なのかもしれません。もしかすると、いずれそうなる「可能性」は、持っているのかもしれないけれど。

*1:仮定です ;-)

*2:思っているかいないかに関わらず、それを判断するのは「わたし」ではなく「他の多くの人」なのだけれど

*3:☆を下さる方はいるけれど(ありがとうございます!)、それはコミュニケーションの切欠になるかもしれない種であって、コミュニケーションにまで発展してはいない、とここでは考えます