言葉と概念

id:gintacatさんが、図らずもわたし好みの「おいしそうなエサ」をまかれていたので、遠慮なく食いつかせて頂きます ;-) *1

以下は、氏のエントリーを読まれたうえでお目通し頂きたいのだけど、まず、わたしが思うところの言葉と文字の関係を記しておきます。いきなり例えですが、例えば「絵を描く」時には、油絵具を使うのか、アクリル絵具を使うのか、あるいは筆じゃなくてペンとインクを使うのも良い、と様々な選択肢があります。

そして絵画の場合、画材や技法による規定は表面的なものに留まりません。油絵を描く眼と、日本画を描く眼では、世界の観かたが違います。

上記のようにid:gintacatさんが書かれている通り、「絵を描く」時に、道具として何を使うのかは複数の選択肢があって、しかもそれは、それぞれにそれぞれの使い方があります。景色や人物や、想像したもの、想うものを「描く」のと同じように、「言葉を留めて」おくことにおいても、それぞれにそれぞれの使い方がある道具はたくさんあると思います。例えば、話すことで人から人へ言葉を伝えていく、あるいは録音をする、書き起こす(=文字にする)こと。録音をするにしても、とうとうと語るのか、朗読をするのか、歌うのか、詠うのか、などなど多彩だし、文字にするにしても、言語や、書き方など、これもまた多彩です。つまり何が言いたいのかというと、文字は言葉を表現する手段のひとつである、ということ。そして、言葉とは、人の思考を(具体的に)表現する唯一の手段である、ということです(これに関しては20080519にて触れています)。

さて、言葉と文字の関係を整理したところで、id:gintacatさんがエントリーの中で書かれている「概念」という単語を出したいと思います。言葉は概念を伴って初めて意味を成します。つまり、シンハラ語を知らないのにシンハラ語を聞いても意味が分からない、というのと同じことです。日本語を知っているから、日本語で「おはよう」という言葉を聞いたときに、その言葉の意味が分かります。だから、言葉と概念というのはとても大切な関係だと思います。

少し話しがそれるけれど、日本語にはないニュアンスを表現出来る言葉が英語にはあったり、あるいは日本語でしか表現出来ない言葉、フランス語でしか出来ない、ロシア語でしか出来ない、といった言葉があります。わたしは日本語が大好きで、日本語を使って表現したり、意思疎通をしたりすることに満足しているけど、最近、他言語を学ぶ必要があると強く感じています。言語を学ぶということ、それは、言葉と概念(意味内容)を結びつけるということです。語彙が増えるということは、それだけ表現の幅が広がるということだとも思います。ちなみに、誤解のないように補足しておくと、平仮名と漢字とアルファベットとハングルを混ぜて使うと良い、という意味ではないです、もちろん。それは、水彩絵具と油絵具と岩絵具を一枚のキャンバス上でごっちゃに使ってしまうようなもので、それはそれで斬新で新しい何かが生まれるのかもしれないけれど、そういうことを言っているのではないです。時と場合に応じて、様々な道具を使うことが出来る、そういう表現の豊かさを持てたら、という意味です ;-)

それた話しをもとに戻します。言葉と概念という関係性が重要だと思うのと同じように、文字と概念の関係性も大切なものだと思います。文字は、作られたその時から概念と一緒です。文字に由来があるのがその証拠で、こういう仕草、こういう絵から、崩され、簡略化され、文字が出来ました*2。だから、文字にはひとつひとつに意味(概念)があって、単体で存在し得ます(ただし、しつこく書くけれど、人が存在してこその単体、という意味です。概念は人がいてこそ存在するものだから)。そういう意味で、ここに、文字が生み出す言葉の可能性のひとつがあります。また、その文字を組み合わせることによって別の概念を意味する、そこにも可能性の広がりがあります。そして、既に概念を持ったものとして作られている言葉に新しい概念を付属させる、それもまたひとつの可能性だと言えます。

最後に書いた可能性についての、ひとつの例をあげてみます。これはマイナスの可能性としての例なのだけど、ちょうど今、輪読会で読んでいる「エドワード・W・サイードとの往復書簡」という本(大江健三郎エドワード・W・サイードの往復書簡)の中で、サイードさんは9・11以降のアメリカによるイスラム批判についてとうとうと述べています。その内容についてもとっても興味深くて、一所懸命考えるに値するのだけど、そこに触れていくといつまでたってもこのエントリが終わらないので敬意を持って割愛するとして、言葉と概念についての部分のみ、一部、引用します。

それでも「イスラム」(何百もの異なる言語、多様な文化と伝統を持つ十三億もの人びとを人括りに表すには、単純すぎて意味のない言葉です)への敵意と誤解が、欧米を中心に世界中を包み込んでいるように思います。これによってすべてが単純化され、ひとつの文化や宗教の全体が少数のカリカチュアへと圧縮されてしまいます。その目的は、深いところに根ざす好戦的な姿勢を持続し、そのような姿勢への支持に大半のアメリカ人を無思慮・無批判に引きずり込むことです。

エドワード・W・サイードとの往復書簡」中野真紀子訳

9・11以前にも「イスラム」という言葉はありました。そして、それは「日本人」「アメリカ人」などと同様に、「イスラム」の人々を示す概念としての言葉でした。でも、アメリカが9・11以降、戦略的に「イスラム」という概念と「敵」という概念を結びつけてしまったため、「イスラム」という言葉の概念がすりかえられてしまい、本来「イスラム」が示す「イスラム」が消えてしまったというのです。そして、「深いところに根ざす好戦的な姿勢を持続し、そのような姿勢への支持に大半のアメリカ人を無思慮・無批判に引きずり込む『イスラム』」はもう既に「イスラム」としての意味は持っていないのです。

言葉が持つ可能性の巨大さは、考えるとくらくらしてしまいます。言葉は人によって作られ、でも人は言葉によって踊らされ、使いながら、使われながら、言葉と共にいます。「言葉は凶器に成り得るもの」という言葉があるように、言葉は道具です。人の思考を(限度はあるけれど)詳細に表すことの出来る、唯一の道具です。凶器にもなるけれど、励みや、温もりや、計り知れない言葉の可能性を、もっとずっと知りたいと思っています。

*1:自分好みの話題じゃないと食い付きが悪いのは自覚するところなので、輪読会やブログで「自分好み」の範囲を広げたい今日この頃です。

*2:アルファベットについては知らないのだけど(勉強不足ですみません!)、平仮名や漢字は、小学生の頃に漢字ドリルか何かで、「漢字のでき方」みたいなのを見た気がします :-)