何のための哲学

twitterで、iPhoneを使いにくいと思う人は使わなければいいと思う、という意見を聞きました。そのことについてなんとなくひっかっかってしまって、いくつか似たような考え方をしている人のウェブ上の記事を読んでみました。簡単に使いにくいと言う前に、そこには作り手の哲学によって考えられた意思があるのだから、慣れる努力をした方が良い、それが嫌なら使うな、と、そういう意見。

このことに関して、新年早々(明けましておめでとうございます!)ウィーン・フィルニューイヤーコンサート2010を聴きながら、ふと思い付くことがありました。以前ヴァイオリンを弾いていたことや、チェロをさわらせてもらったことがあるけれど、楽器は、演奏をするのが難しいです。トランペットやトロンボーンは音を鳴らすことすら簡単には出来ないし、練習や慣れが必要になります。上記に書いた彼らがウェブ上で言っていたのは、こういうことだったのだろうか? つまり、良い音を鳴らすためには練習が必要で、練習もせずに文句を言うなと。

だけど、少し考えてみて、それは違うって思いました。楽器はそれを使いこなさなければ奏でられない音色がある。だから奏者は絶え間ない努力をする。楽器が身体の一部であるかのように弾きこなされる楽器が奏でる音は、例えばわたしが演奏する音とは雲泥の差、本当に綺麗です。でも、例えばiPhoneを使って路線を調べる、という動作をするときに、iPhoneに慣れている人が調べてもそうではない人が調べても、同じツールを使えば結果は同じものが返ってきます。努力をしたかしないかによって、アウトプットされる結果は変わりません。だったら、なるべく努力をしないでスムーズにアウトプットに繋げられる方が良い。路線を調べることが目的ではなく、調べた路線を使って目的地に行くことが目的なのだから。

もちろん、作り手が考えに考え抜いて、絶対にこうした方が便利なんだ、という哲学を持って生み出されたものに価値がないとは思わないです。作るものに込める思いはきっと強い。だけど、そうして作られたものに価値がでるのは、ユーザに使われるその瞬間なのだと思います。使われないものはそこにあってないに等しい。
ユーザにとって本当に便利なものなら、自然と浸透していくのではないかと思います。その過程に、使いにくいという声があがったとしても、優れたものならきっと受け入れられていく。だけど、だからと言ってユーザの不満の声に耳を傾けず、絶対に便利だ、これが哲学だと言い張るのはおかしい。使えないユーザは使わなければ良いと言ってしまうような哲学は変です。なぜなら、作られたものは作り手のためにあるのではなく、ユーザのためにあるのだから。

関連して、少し話しはそれるけれど、ウェブ制作は作り手が表にでやすくてソフトウェア開発はそうではない、ということについて考えたことがありました。その時は、エンドユーザが直接触れるか触れないかによっての違いなのだろう、と思っていたのだけど。少し違う考え方を思い付いたので、書いてみます。
それは、ウェブサイトはそれ自体がユーザを楽しませ(て売上に繋げ)ることが目的と成り得るけど、アプリケーションはそうではないということ。アプリケーションはそれを使うこと自体を楽しんでもらうのが目的なのではなく(もちろん使っていて快適だと思えるアプリケーションでないと、ユーザにずっと使い続けてはもらえないって思うけれど!)、それを使ってどのくらい便利に、どんなことを実現出来るのか、ということが重要になるということ。
こういう風に考えてみて、インフラ基盤は裏方だとよく言われるけれど、実はアプリケーションだって裏方なのかもしれない、と思いました。インフラはアプリのための、アプリはユーザのための基盤。裏方は表に顔をださないものだから、ウェブ制作のように、作り手が表にでるということがあまりないのかも ;-)