「形」についての考察未満

鈴木雄介さんのエントリ「ソフトウェアにおける形についての考察」を読んで、「面白いな、形の会に参加してみたいな」とtwitterでつぶやいてみたところ、話しがちょっと広がって、わたしが今持っている「形」に対する考えを書いてみることにしました。
twitterを追ってつぶやきを読んでいくにつれ、形の会の参加者にどんな方々がいるのかが分かり、その錚々たるメンバに驚愕したりもしながら。彼らの思考の深さには到底及ばないけれど、こういうことを考えるのは好きなので、これもひとつの切欠だから、久しぶりに考えをまとめてみようと思います。こういうエントリを書こうとすると、なんだか大学生の頃に戻ったみたい :-)

twitterでつぶやかれていた「形」に関するエントリとして見つけて読んだものに、上記の鈴木雄介さんのエントリと、棚橋弘季さんの「形をめぐる冒険のはじまり」というエントリがあります。形について話しをされていた方々の話しは幅が広く、すべてについて突っ込んでいくと、頭の中で散らばっていきそうだったので、どれについて書こうか、迷ったのだけれど。一年前くらいからずっと気になっている、身体的なものをデジタルデータに変換することでその身体性を受手に提示する、ということはどういうことだろう、ということについて、少し書いてみたいと思います。

例えば、鈴木雄介さんのエントリに書かれていた、手紙とメールのお話し。

手紙では、書くという行為の関わり先は「この手紙」そのものです。ペンを使って痕跡を刻んでいくという"形作る行為"と、その結果には緊密な関係があります。ですから、手紙では、「この手紙」そのものが他人と共有される形になります。
 一方、メールでは、書くという行為の関わり先は「メーラー(=メールソフト)」になります。そして、タイピングという"形作る行為"によって生まれるのは「メールのデータ」であり、他人と共有されるのも「メールのデータ」です。

書くという行為をデジタルデータに置き換えた瞬間「そのもの」が相手と共有されることはなくなります。つまり「身体性」が欠如する、ということ。手書きの手紙に感じられる温もりをメールでは感じにくいのは、この「身体性」が抜けているからではないか、と思います。
デジタルデータに変換されることで、そのものが持つ「意味」以外のすべての「身体的」な付加価値は排除される。だからと言って、メールを受け取った相手が、そこに「身体性」を感じていないかと言えば、たぶんそうではなくて。デジタルデータに変換される際に一度は抜け落ちていったものが、受け手が自分の身体を介してそれを再度アナログなものに変換するときに、身体性が付加されている。その量が、アナログなものとして受け取るものよりも少ないとしても、その変換は無意識に行われているような気がする。
その「無意識」とは? デジタルデータから受け取る「形」が持つ形とは? アナログなものがひっそりと持っている数値を引き出してデジタルに変換することで欠如されていく細かな粒子は、いったい受け手に対してどれくらいの影響力を持っていて、それは何なのか。変換の過程で抜け落ちていった部分を人間はどのくらい補っているのか、補っているものは抜け落ちているものと同じものなのか、違うものなのか、そもそも補えているのか、補うことができるものなのだろうか?

一年前から思考が止まって、答えがまだ見つかっていない、こんな問いかけ。話しは逸れてしまうけれど、スケーラビリティが変わると印象が変わる、といったつぶやきも、関連のつぶやきの中のどこかで見かけたような気がします。これについてもとても興味があります :-) 形が変わると印象が変わる。同じようなものでも些細な形の変化によって、受ける印象はがらりと変わる。面白いと思うし、同時にとても不思議で、少し怖い。

なんだか、つぶやかれていた「形」の話しからは少し話しが逸れてしまったような気もするけれど :-0 逸れたついでにもう少しだけ逸らすと、この不思議に思うこと、を模索している人達のひとりが、現代アーティスト、だと思っています。
形の会の思考はハッシュタグ付きでつぶやきとして展開されるようなので、深い思考の波を追いかけるのが楽しみです :-)