糺ノ森

賀茂御祖神社*1と糺ノ森へ行ってきました :-)
糺ノ森は6月がおススメなのだそうだけど、ぎりぎりで6月にすべり込み(笑)。天候が曇っていたのがちょっと残念だったけど、空気が澄んでてとても気持ちがよかったです。

賀茂御祖神社では婚儀が行われていたり、十二単の着付解説が行われていたり、笛の音が鳴っていたり、十二単を纏われた方の舞があったりと、催しがたくさんでした。あと、神様のお台所が見れたりとか、牛車が見れたりだとか。あ、君が代の歌詞にある「さざれ石」も見てきました。盛りだくさん。
下賀茂辺りを満喫してから、そのままずっと徒歩でくだって、セカンドハウス*2でごはんを食べて、賀茂御祖神社へ一緒に行った友達のお家で、途中で買った出町ふたばの豆餅でお茶をしたりしました。豆餅、とってもおいしかった :-)

京都を歩いたり、森の中を歩いたりするだけで嬉しくなるなんて、これはきっと、京都という町の成せる技。次の予定は映画村です!(笑)

*1:賀茂神社のこと

*2:京都のカフェ

a GRAND PIANO

とりとめもなく、いろんなことを思いながら日々をすごしています。いろんな感情がとけたりかたまったりしながら、今に居ます。そして今週の金曜日、広い空間とグランドピアノを手に入れました! :-)
大学の映像スタジオでグランドピアノが弾けるということをいまさら知って、広い空間を独り占めして、少し古いグランドピアノを初めて弾きました。あんな空間を使って一人でグランドピアノを弾けるって、なんてすごい! ピアノは古くて調律も危うい感じだったけど、ピアノに触れる感覚って好きです。鍵盤の重みとか。さわったときの冷たい感じとか。部屋がとにかく広いので、反響板をあけてなくても音が広がっていく感じがすごく良い。すごく贅沢な時間でした。至福!
技術も足りないしブランクもあるし、思ったような音はなかなか出せないけど弾くのは大好きなので、久々に心からウキウキしてました。クラシック・バレエ部が練習する場所でもあるので、くるみ割りを連想しながら花ワルを弾くと、ちょっと楽しい(笑)。来週学校に行ったら、最近よく聴いてる、ベートーヴェンピアノソナタ17番*1(第3楽章)練習します :-) はやく来週にならないかな!

*1:テンペストという名前で有名な曲

幸せな11日間

ここ2週間ほど、母校の中高へ戻り教育実習をさせて頂いていました。
なにをどうやって良いのか分からないまま教室に入った最初の1週間。そして、8時間分の情報の授業を担当させてもらった残りの1週間。この2週間を過ごしているときは、毎日が大変で、きつくて疲れて、ため息もたくさんついたけれど。本当に、なんて素敵な2週間だったことかと思います。
初めは、生徒とどう接して良いのか分からなくてとまどっていました。そうしたら、そのとまどいが生徒達にも伝わって。段々と慣れて、もっと生徒達と話したいと思うようになると、生徒達が笑って話しかけてくれるようになりました。生徒達と仲良くなって、少しずつ生徒に注意や指示が出来るようになってくると、そこにいるのが当たり前であるかのように教室にいることが出来ました。生徒には、本当にいろんなことが伝わります。先生、という立場でそこに存在するだけで、良くも悪くも生徒に影響する存在になってしまう。先生という肩書きってすごいなぁと思います。

実習期間中、中間テスト、風紀検査、進路学習、人権学習といろんなイベントがあったけれど、生徒達ばかりじゃなくて、わたしにとってもどれも良い経験となりました。情報の授業では、教科担当の先生に「専門は何ですか?」と聞かれて「ウェブです(結構嘘)」と豪語したら、ウェブについての授業をさせてもらえることになって、生徒達に思う存分ウェブについて伝えてきました :-) 1日に4時間授業をする日もあって、その日はさすがに大変だったけど、授業をするのは本当に楽しかったです。生徒が「先生、パソコンちょっと好きになった」とか「家に帰って、教えてもらったサイトをまた見てみたい」とか言ってくれると、本当に「やった!」という気分! :-D
慣れないうちは教室に行くのもおっくうだったのに、最後の日、締めの挨拶をしようと教壇に立ってみんなの顔を見ると、もう涙がとまらなくて大変でした。生徒達に「先生泣きすぎ! もらい泣きしそうになってヤバいから泣かないで」とつっこまれるくらい(笑)。

たいした心構えもなく挑んだ教育実習だったけれど、教師という存在が生徒にとっていかに重要なのか、教師にとって生徒達の存在がいかに大きいのか、実感することが出来ました。教師という立場になってみないと分からないことがある。教師が、いかに生徒のことを大好きなのか(本当に、どの子もみんなかわいいのです)。どれくらい、生徒のことを大切に思っているのか。わたしは考えがまだまだ甘いのだとは思うけど、でも、生徒が笑顔になってくれるなら、大変でも頑張れない訳がない、と思えることを、知りました。
生徒の立場にいると、そんなことはまったく知らないけれど。口うるさい先生ばかりでイヤ、と言う生徒も多いけれど。でも、それはわたしが中高生だった頃もそうだったし、それで良いのだと思います。嫌われるくらいでちょうどいい。嫌われるくらいに、何度も何度も生徒に一粒ひとつぶの種を撒いて、いつの日か生徒がそれに「気付い」て、芽を出してくれた時。その「時」を体験すると、もう先生をやめることは出来ない、と、とある先生がおっしゃっていました。
大変だったけど、言うことを聞かない生徒に苛立ったこともあったけど、中高生の先生になる、こんな体験が出来ることなんて、わたしには、きっともう二度とない。いろんなことを生徒達から、先生方から、中学、高校というその場所から、与えてもらいました。
あっと言う間に過ぎ去ってしまった、なんて幸せな2週間。惜しみない感謝を、先生方へ、そして、大好きな生徒達へ*1

*1:今週の月曜日の全校一斉英単語試験はどうでしたか :-)

「発見」と「気付き」

前回のエントリで、最近「気付く」ということに注目している、と書いたのだけど、今回は「気付く」ことについて書き綴ってみます。
気付く、という単語を辞書で引くと、以下のように書かれていました。

き‐づ・く【気付く】[動カ五(四)]

1.それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を知る。気がつく。「誤りに―・く」「忘れ物に―・く」
2.意識を取り戻す。正気に戻る。気がつく。「―・いたらベッドの上だった」

大辞泉より)

ここでわたしが記す「気付く」こと、というのは1の意味に近いのだけど、でも「気付く」ことは「知る」こととは少し違うのではないかと思います。「知る」ことは知識だけでも済むけれど、「気付く」ことには、実感が伴う必要があるのだと思います。今まで、教えてもらって知っていたはずなのに、それがどういうことなのか分かっていなかった、ということが何度もありました。それは、例えば20080419で書いたことだったり、20080522で書いたことだったり。既に知っていたことだったはずなのに、唐突に実感を伴って「気付く」ことがある。言いすぎかもしれないけど、気付く、というのは、知る、よりも理解する、と言った方が近いのかもしれません。
アーティストの藤本由紀夫さんの公演を聞いたとき、わたしはたくさんの「発見」をしました。今まで考えもしなかった思考を聞いて、新しい発見が溢れるほどにあったのだけど、その中で、まだわたしにとって「気付き」にはなっていない部分がたくさんあると思います。それに「気付く」ことが出来るのがいつなのか、分からないけれど、「発見」して意識することで、「気付く」可能性も高まるのではないかと思います。「気付いていないことに気付いた」時から、わたしはまだ気付いていないたくさんのことに「気付く」ために、出来るだけ多くの人と話しをする、ことを意識するようになりました。何故なら、今までに「気付いた」時というのは、人と話しをしている時が多かったから。話していて思考が深まる人となら何度でも話したいし、アーティストやデザイナーだけでなく、いろいろな職業や立場の人と話しをしてみたい*1
藤本さんにこういったお話しをしたら、「大学には同じような志を持った人が集まってくるから、専門的なことでも深い話しがしやすい場。そういう意味でも優れた場所」だと教えてもらいました。それから「例えばナイフを持った殺人犯と出会い、刺されてしまうというのもひとつの『出会い』。疲れてしまうし、気付くことに焦る必要はない」とも。焦っているとき(例えば、9:00に待ち合わせの約束だったのに8:40に起きてしまったときのようなイメージ)に焦らないことは難しいけど、この言葉には「うわ、バレてる」と思ったので(笑)、時折、藤本さんの言葉を思い出せるようにしていたいです。「気付い」て上手に切り替えが出来るようになる時まで、「発見」の有効活用をば :-)

*1:ただ、アーティストやデザイナーは普段から考える人が多い気がするのと、思考が近い気がするのもあって、話しやすいという事実も然り :-)

アーティストとデザイナー

以前、アートとデザインの違いはなんだろうって考えていたことがあります。デザイナーの原研哉さんはふたつを明確に分ける必要性を感じない、という旨のことを氏の書籍の中で書いていたけれど、最近、アートとデザインは違う、と確かに思うようになりました。
ブログに書こう、書きたいと思ってまだ書けていないけど、5月の末にアーティストである藤本由紀夫さんの公演を聞いたり、作品に触れたり、直接お話しをさせて頂くことがありました*1。それから、今日はデザイナーの佐野研二郎さんの展示会を見て、公演を聞いてきました*2。そうして思ったことは、アーティストとデザイナーは、明らかに違う、ということ。もう少し身近にいるアーティストM氏とデザイナーY氏を見ていてもそう思います。その二人と話しをすると、もっと顕著にそう思う。
藤本さんとお話しをしていて、アートとデザインについての話しが出たとき、藤本さんは「僕はアートとデザインはまったく違うものだと思う」とおっしゃっていました。曰く、デザイナーは答えを見つけていく人で、アーティストは問題を見つけていく人なのだ、と。
この言葉を聞いた瞬間、わたしは目からウロコが落ちた気分(本当にそんな気分!)で、アートとデザインを明確に切り分けられたような気がしました(もちろん、表現していくうえで重なる部分はあるのだけれど)。アートは難解だ、と言われることが多いけど、問題は難解なものなのだからそれは当然のこと。問題を解きほぐして答えを見つけて、提示するのがデザイン。だからデザインはアートよりも輪郭が強くて、明確で、分かりやすい。見ていて気持ちが良いし、生活に入ってきやすい*3し、受け止めやすい。それは、考え抜かれて出された「答え」だから。そう考えるとすべてがすっきりとします。分かりやすい方が人には認められやすく、支持もされやすい。日本では答えばかりが注目されているけれど、問いは自動的に発生しているものではなく、答えを導くのと同じくらい考えて考えて作り出されているものなのだから、問いももっと注目してもらえると良い、と藤本さんはおっしゃっていました。本当に、そうだなぁと思います。
問いを見つける者と、答えを見つける者。表現するために使うメディアや手段が重なるところもあるから混同しやすいけれど、アートとデザインは、その目的が確かに違います。アーティストもデザイナーも、なんて素敵で、そしてなんて難しい職業なのだろう、と思います。奇抜さは斬新さではなく、今までにないものを作り出すことは目的でなく、見つけた問いや答えを表現するための過程に過ぎない。そう考えていくと、そんなに情報を持っている訳でもないけれど、全体の比率で見ると、優れたアーティストやデザイナーの、なんて少ないことだろうかと思います。かっこ良かったり美しかったり、それを作り出すこと自体が目的になって、なんとなく「それっぽい」ものを作れる、なんちゃってアーティストやなんちゃってデザイナーがたくさんいる気がする。そしてそういう人達が世に受けやすいのが今の現状なのだ、とも藤本さんはおっしゃっていました。作品にオリジナリティを、だとか、アイデンティティだ個性だと盛んに言われる時代だけど、それは手段であって、目的ではないはず。自分の作りたいものを作って人に押し付ける、見た目がかっこ良かったり目新しいだけのそういう作品が持てはやされる。アーティストやデザイナーが持つべきアートやデザインに対するリテラシーはもちろん、そうではない人の目も、もっと養っていくべきなのだと思います。
書きたいことがいろいろあって、書き足りないけれど、また「藤本さん編」と「佐野さん編」のふたつに分けて記事を書きたいなぁ(書きたい、と書いておきながら書けていないことが増え続けている気がするのはたぶん気のせい)。
この記事の最後にもうひとつ、わたしが考えるアーティストとデザイナーの共通点について。それは「気付く」*4こと。わたし達はまだまだ気付いていないことがそこかしこにたくさんあって、いかにそれに「気付く」か、はとても重要で、そしてとても難しいことであると思います。アーティストはいかにして「問題」に気付くか、デザイナーはいかにして「答え」に気付くのか。探しているものや表現するものは違っても、そのために「気付く」こと、この作業はふたつに共通していることなのではないか、と思います。気付くために、どうすれば良いのか。わたしが見つけたその方法については、また後ほど ;-)

*1:書きたいことがどんどん溜まっていくよ...!

*2:これについてもまた別途書きたいのです!

*3:良いデザインが身近にあると生活が豊かになる気がします :-)

*4:「気付く」こともわたしが最近注目している事項です。これについてもまた後ほど書きたいな...(書きたいことが多過ぎる)。

ブログ・コミュニケーション

ブログを書くということは、ノートに日記を書くことなどを例とする「自分とその周り」の人だけが関係する行為ではなくて、望もうがそうでなかろうが、全世界の人に向かって情報を発信していることだ、と言えます。だから、いろいろな人から意見をもらえたり、そこから視野が広がったり繋がりを持ったり、多くの可能性を持っているのだ、と。そういう考え方を知った時に、そうだなぁと思い、今までもそう思い続けてきたけれど、もしかすると、そうではないかもしれない、と今日、突然思いました。
情報があふれているインターネットの中では、石と玉が混在していて、玉は自然と人の目に留まることで選り分けられていき、そうでない石は淘汰されていくのだと梅田さんの本で読んだことがあります。多くの場合、石と玉があれば石の割合が多いはずで、梅田さんの言う通りなら、その多くの石は淘汰されていきます。石か玉か、というその判断は、インターネットの世界では多数決です。多くの人が関心を持てば玉、そうでなければ石。例えば、このブログのこの記事の内容は石なのか、それとも玉なのか、という問いを持ったとき、おそらく多くの人にとっては石になるので、石だと判断されます*1。でも、ただ、わたしだけにとっては(もしかするとわたしを含む他の数人にとっては、になるかもしれないけれど、それは誤差の範囲)確かに玉です。自分が書く文章が他の多くの人にとって意味のあるものになるとは思っていないけれど*2、自分の考えをまとめる、という点で、自分のためになっていることだけは確かです。
だから、どんなに石であろうが、ブログを書くという行為は、まったく無駄な訳ではないと思います。書いている人がいる以上、その人にとってそれは何らかの意味があることで、例えそれが石と呼ばれても、書いた本人にとっては玉であると思うのです。
けれど、いくら石が書き手を含む少人数の誰かにとって玉であろうとも、コミュニケーションの場としてブログを活用できる、ということが出来るのは、多くの人にとって玉だと認められた玉だけの特権ではないかと思うのです。多くの人が関心を寄せなければ、石として淘汰されていく情報。情報の波の中で、自分が興味があることを書いている記事がもしあったとしても、それにたどり着くためには、検索エンジンを使います。その検索エンジンが表示するのは、まず、玉から。検索エンジンに代表されるgoogleの玉の選び方は、多くの人に注目(リンク)されているかどうか、です。例えどこかの誰かにとっては玉である情報も、検索エンジンによって石と判断されると、それはないのとほぼ等しい状況が生み出されます。
そういう状況で、果たしてブログはコミュニケーション手段に成り得るのでしょうか(もちろん、一部を除いて)。コメントもトラックバックも寄せられず、書き手の発信だけのワンウェイになっているブログは多々見かけます。また、多くの人と繋がる可能性がある、とは言えど、コメントがあっても、コメントを書いた人はブログを書いた本人と知り合いであることが多い、という面もあります(もちろん、一部を除いて)。このブログもそうで、コメントを下さる方が純粋にブログで知り合った方、ということは少ないように思います*3。別の場所で会っている、あるいは直接的ではなくても何らかの別の関わりがある人が多いような気がします。多くの場合、ブログは「全世界の人に見てもらえる可能性があり、繋がりや広がりを持てる可能性がある」だけ、つまり、可能性止まりになっているように思うのです。
対面のコミュニケーションにおいて、わたしは最近、自分から、を心がけるようにしています。自分から行動してその場所へ行ってみる、自分から行動して話しかける、自分から触れてみる、動いてみる、体験してみる。そういうことをした場合、対面でいると、必ずレスポンスが返ってきます。初めて会う人であったとしても、すぐ目の前にいて「こんにちは」と話しかけているのに、無視されるということはまずありません。話しかけると必ず何らかの返事が返ってくるし、触れてみると必ず何らかの感触が伝わってくるし、動けば必ず動いたぶんだけ、今までとは違う場所にいます。
でも、ブログでは必ずしもそうとは言えません。記事を書いても何の反応もないときや、誰かのブログにコメントをしても書き手の反応がないこと、そういうことがしばしばあります。それが自分自身のメモ書きや、考えをまとめるための行動であるなら、反応は必ずしも必要なものではありません。けれど、全世界の人を相手にしたコミュニケーションの手段、として考えると、どうでしょうか。コミュニケーションは相手がいて、何らかの意思疎通をしてこそ成り立つものです。対面であることに比べて、ブログをコミュニケーションの手段として捉えるには、あまりにストレスが溜まりやすいように思います。相手に意見を求めているのに、返ってこない。全世界の人に向けて発信しているはずなのに、誰からもレスポンスがない。それは、SNS(例えば、mixi)に依存してしまったり、携帯のメールの返信の有無を異様に気にしてしまう人が、コミュニケーションでは当然あるべきはずのレスポンスがないことにストレスを感じてしまう、ということに酷似しています。
メールを例にして見てみると、もう少し考える切欠が生まれます。直接相手のアドレスを打ち込んで送ったメールは、発信者も受信者も一対一です。だから、メールを送られた相手は返事をしなければと思う。けれど、これがメーリングリストにメールを送った(一対多)とすると、コミュニケーションにはならなくなる場合が多くあると思います。つまり、情報を受け取るだけで、それに対するレスポンスをしなくなる、ということ。「自分」に向かって相手が情報を発信してきている、という感覚が薄くなるのかもしれません。
mixiで日記を書いて、友達からのコメントがないことに対してあまりにストレスを感じている人(あるいは、携帯のメールの返信を気にしすぎる人)は、SNSやメールを確かなコミュニケーション手段として見ているからではないかと思います。でも、社会において大切なことは直接会って話す、それが無理ならせめて電話をする、ということが当たり前に思われているということに反映されているように、それらは確実なコミュニケーション手段ではないような気がします。ブログも、そうです。いくらブログが全世界の人に発信されているといっても、だからといって、全世界の人と知り合いになっている人はいません。ブログがコミュニケーションの手段として、対面でのコミュニケーションと同等(あるいはそれ以上)の手段であると言い切るのは、まだ時期尚早なのかもしれません。もしかすると、いずれそうなる「可能性」は、持っているのかもしれないけれど。

*1:仮定です ;-)

*2:思っているかいないかに関わらず、それを判断するのは「わたし」ではなく「他の多くの人」なのだけれど

*3:☆を下さる方はいるけれど(ありがとうございます!)、それはコミュニケーションの切欠になるかもしれない種であって、コミュニケーションにまで発展してはいない、とここでは考えます

「在ること」と「無いこと」

本当はKYOTO ART MAP 2008のギャラリーやシンポジウムについて書こうと思っていたのだけど、今日あった出来事でキャパシティがオーバーフローしそうなので、それはまた後日にして。
今日は、6月8日まで京都芸術センターで開催されている「virtual/actual 生成・変化・流動」を見に行きました。主催者であるアーティスト集団「SZ」の前田さんがパフォーマンスをされていたり、実際に自分の頭に脳波を測定する入力装置を取り付けてもらって、作品とインタラクティブなやりとりをしたり、他の鑑賞者の入力による出力を見たり(当然、人によって脳波は違うのでまったく同じ出力というものは存在しないのです)、体験することや、鑑賞することによる様々な感情や思考が渦巻いて、とても面白かったです。
パフォーマンスや作品や、作品の出力について、もっと具体的なことを書きたい気もするけれど、たぶんここで言葉にすると語弊が発生したり、何かが抜け落ちてしまいそうな気がするので、気になった方は、是非、足を運んでみてください :-)
京都芸術センターでは偶然友達に出会って、作品を鑑賞したあと、散々カフェでゆったりした時間を過ごしたあげく、関係者の方が集うパーティに出席させて頂けることになって、まさに棚から牡丹餅状態でした。行って良かった! :-)
パーティでは、SZの前田さんと真下さんとお話しをさせてもらって、とても印象的だったので、忘れてしまわないうちに、ひとまず自分のために箇条書きでまとめておきます*1

  • 顕在するものと潜在するものの間で、抜け落ちているものがある(山から海への思考の変化の間)
  • 時間とリズムの関係
  • 人の身体は胃や腸など、それぞれに体内時計(リズム)を持っている(ホタルの光の実験による)
  • リズムは「在る」と「無い」で成り立っている断続的なもの。音がある時とない時の間にある、気に留められることのない(潜在している)失われている何か
  • 大きなリズムの中で動く小さなリズムの中のリズムの中のリズムの中のリズムの...
  • 補足:宇宙に有機物(=生物)が存在するということが、大きなリズムの中の音が在る時だと仮定すると、その大きな「在る」中に個の有機物が生きて死に行くことで織り成す在ると無いのリズム、個の有機物の中での胃などによる多様なリズム、胃などを作る細胞のリズム、また更にその中のリズム(以下延々)
  • リズム=断続的なものである、つまり在ることと無いことで成り立っている、生と死によるリズム、リズムの中では死があるからこそ生がある(死は生へ繋がること)*2
  • エネルギーは有限(宇宙が広がることは、エネルギーが薄くなること)
  • エネルギーを集めることが出来るのは有機物だけ
  • 食べること=エネルギーを集めること
  • エネルギーを集める有機物はエネルギーが拡散していく宇宙に反発している存在(エネルギーをその存在に集めて凝縮している)
  • 多くの無機物の中で発生し、宇宙に反発して存在する有機物は奇跡的だと言える
  • 有機物は不安定な存在
  • ビックバンは無から生まれた
  • 無機物が集まると有機物的な何かが生まれる(?)*3
  • 無機物で有機物を表現するということ、その可能性
  • 無いものを在ると感じる、無いということが在るという概念
  • 言葉という切断(例えば、コップはコップという言葉である必要はない。コップという言葉は、コップをコップとして存在させるためにコップ以外のものからコップを切断するための道具である)
  • 無と在の不思議と面白さ、その関係(縦割りな考え方で理解しようとするべきものではないような気がする)

無駄に多くなってしまったけれど(そしてまだある気もするけれど)(そして大部分がメモなので雑多な感じだけど)メモをもとにもう少し噛み砕いて、そのうちこれらを文章にしてみます。とにかく考え方や情報が新鮮で、だからなのかとても質量を感じて、いっぱいいっぱい。時間の都合で途中で抜け出さなければいけなかったことが本当に残念です! 時間を気にせず、もっとあの空間に浸っていられたら良かったのになぁ。

*1:あとで、まとめ直します、きっと

*2:この考え方は、人を前向きにさせてくれる気がします

*3:これについてはお話しが途中になってしまったので、まだぐるぐるしているところ