ル・コルビュジエと国立西洋美術館

昨日、ル・コルビュジエ国立西洋美術館展へ行ってきました :-)
国立西洋美術館開館50周年記念ということで、西洋美術館を設計したコルビジェの特集が組まれていました。内容は、西洋美術館の歴史や建物に対するちょっとした構造の説明が最初にされていて、後は西洋美術館を実際にめぐれるように、常設展を見てまわることが出来るかたちになっています。
説明のところに「プロムナード」という言葉があったのだけど、これは、わたしにとって印象的な言葉でした。建築に関してはまったく詳しくないのですが、わたしにとって「プロムナード」の意味は、「空間を繋げること」のように受け取れました*1。ひとつの地点から見えている別の地点を見ながら移動していくと、視界が途切れることはないのに、今までにいた地点からは見えなかったものが見えてくる。今までにいた地点からは見えていたものが見えなくなっていく。でもそこに、その地点がある、ということは、ちゃんと見えている。美術館の中を歩くと、他の美術館とはちょっと違った雰囲気のフロアになっていて、柱があったり剥き出しの階段があったり、あちらこちらに他の空間が見える穴があったり窓があったり、ぐるぐるとまわれる迷路のようでした。でも、どこにいても、その地点以外の他の空間を見ることが出来て、一歩歩くとその空間が自由自在にかわっていくのは、とても面白かったです。とっても大きな秀逸な美術作品の中にいるみたい*2で、贅沢で不思議な感じでした。
それから、常設展を見終わったあとに、ミュージアムショップで見つけた「ル・コルビュジェさんのつくりたかった美術館」という絵本のような本が、とてもすてきでした :-) コルビジェがどのようなことを意図してこの設計にしたのか、簡単に、でもとても分かりやすく書かれています。コルビジェに興味はあるけれど、どこから入ったらいいのか分からない、という方には、とってもおすすめです。
その本の中で特に印象的だったのは「美術館は、世界を見る装置だ」という言葉です。美術館は大好きでよく行くけれど、美術館そのものとは何だろう、と考えたことはなかったので、この言葉は新鮮でした。美術館は世界を見る装置。ものすごく豊かなものの見方を知ることが出来て、ほんのり幸せです :-)
国立西洋美術館展へ行く時には、ぜひ作品だけでなく、空間も見てきて欲しいと思います :-)

*1:ちなみに、ちゃんとした建築用語としては、「街の活性化の一環として中心部商店街の中に広場や遊歩道を設計し、植栽、街具、街灯などをデザイン性をもって配置し、快適空間を演出したもの。」 http://www.architectjiten.net/ag18/ag18_935.html という意味らしいです。

*2:みたい、ではなく、実際にそうなのだろうけれど ;-)

1年と1ヶ月

およそ1年と1ヶ月振りにエントリを書きます :-)
1年前は大学生だったわたしも、今では大学を卒業してIT企業に就職し、SIとして提案するシステムの、ひよひよプログラマをしながら過ごしています。
社会人として過ごす日々は、慣れていないせいもあってか、今はそんなに忙しくもないはずなのに、毎日があっという間に過ぎていく感じです。1日がとても短くて、今日が何曜日なのかも忘れてしまいながら会社へ行って、気が付いたら週末、そして月曜日。何も見えなくなりそうな日々に耐えられなくなりそうで、でも、せっかく楽しくなる要素を持っているはずの今を楽しく過ごしていたいから、そのために、いろいろなことをやってみようと、そろそろ動き出しました。
その動きの中のひとつとして、ふと、またブログを書いてみよう、と思い立ちました。久しぶりに読み返した1年前のプロフィールやエントリは、懐かしさや、1年前のわたしが考えていたことを、今の私に教えてくれたりしました。日々に埋もれそうになる今のわたしをつなぎとめるために、来年のわたしに何かを残すために、時折、また、ブログを書いてみようと思います :-)

「骨」展

会社の同期の友達に誘われて、今月15日、東京ミッドタウンガーデンで開催されている「骨」展へ行ってきました :-)
本当にいろんなものの「骨」が展示されていて、とっても面白かったし、気付かされることも多くありました。わくわくして楽しめるというのが、最近のわたしの中の重要な要素でもあるのだけど、この展示会は本当にわくわくがたくさんありました!
普段意識しない「骨」を浮き彫りにすることで、見えてくることがたくさんありました。骨って実はとってもキレイで、洗練されてるんだなぁって感じたし、ものを支える中心だからこそ、それがないと成り立たないし、壊れた時にはなんとも言いようのない不安定さを感じてしまう。
展示会に行くまで知らなかったのだけど、出展者の一人に中村勇吾さんがいて*1、彼の作品「CRASH」は、骨が壊れる様を表現していました。それから、ニック・ヴィーシーという方の作品に「X-RAY」というのがあって、これは、iPodを聞いている人や、電気スタンドやドライヤー、タイプライターや飛行機(ボーイング777)をX線で撮ってしまう、という作品でした。こんなに綺麗に撮れるのかと驚くほどはっきりと、骨格や構造が浮き彫りにされていて、そのものに対して*2敬意を抱かせてしまうようなレントゲン写真でした。
他には、明和電気の笑うためだけのロボット「WAHHA GO GO」という作品の解説で、大切なのは脳を持たないロボットが脳を持つ人の笑いを誘う、というところです、という言葉が印象的でした。その他にも、家具の骨の展示*3、あたかも生きているかのように飛び跳ねるロボットや、触手を動かすロボット、座ると体重がかかっている箇所のランプが光る椅子、美しい骨だけの弓曵き小早舟*4など、とても興味深くて面白くて、でもすごく分かりやすく「骨」を剥き出しにした作品がたくさんありました。
感じたこと、気付いたこと、たくさんあったのに、なんだかうまくまとめられません :-( でも、だけど、「骨」展、すごくおすすめです。山中俊治さんのディレクションも、とっても素晴らしかったと思います*5。受付横に置いてある無料でもらえるマップは、ぜひ手に取ってみてください♪
「骨」展 http://www.2121designsight.jp/bones/

*1:展示会場で中村さんの名前を見た時、ものすごくテンションがあがりました! :-)

*2:正確には、そのものを作った人

*3:カッシーナの椅子もありました ;-)

*4:運良く実演を見ることが出来ました!

*5:最後に、なんと山中さんの頭蓋骨のコピーがご挨拶をしてくれたりするんです。

言葉と概念

id:gintacatさんが、図らずもわたし好みの「おいしそうなエサ」をまかれていたので、遠慮なく食いつかせて頂きます ;-) *1

以下は、氏のエントリーを読まれたうえでお目通し頂きたいのだけど、まず、わたしが思うところの言葉と文字の関係を記しておきます。いきなり例えですが、例えば「絵を描く」時には、油絵具を使うのか、アクリル絵具を使うのか、あるいは筆じゃなくてペンとインクを使うのも良い、と様々な選択肢があります。

そして絵画の場合、画材や技法による規定は表面的なものに留まりません。油絵を描く眼と、日本画を描く眼では、世界の観かたが違います。

上記のようにid:gintacatさんが書かれている通り、「絵を描く」時に、道具として何を使うのかは複数の選択肢があって、しかもそれは、それぞれにそれぞれの使い方があります。景色や人物や、想像したもの、想うものを「描く」のと同じように、「言葉を留めて」おくことにおいても、それぞれにそれぞれの使い方がある道具はたくさんあると思います。例えば、話すことで人から人へ言葉を伝えていく、あるいは録音をする、書き起こす(=文字にする)こと。録音をするにしても、とうとうと語るのか、朗読をするのか、歌うのか、詠うのか、などなど多彩だし、文字にするにしても、言語や、書き方など、これもまた多彩です。つまり何が言いたいのかというと、文字は言葉を表現する手段のひとつである、ということ。そして、言葉とは、人の思考を(具体的に)表現する唯一の手段である、ということです(これに関しては20080519にて触れています)。

さて、言葉と文字の関係を整理したところで、id:gintacatさんがエントリーの中で書かれている「概念」という単語を出したいと思います。言葉は概念を伴って初めて意味を成します。つまり、シンハラ語を知らないのにシンハラ語を聞いても意味が分からない、というのと同じことです。日本語を知っているから、日本語で「おはよう」という言葉を聞いたときに、その言葉の意味が分かります。だから、言葉と概念というのはとても大切な関係だと思います。

少し話しがそれるけれど、日本語にはないニュアンスを表現出来る言葉が英語にはあったり、あるいは日本語でしか表現出来ない言葉、フランス語でしか出来ない、ロシア語でしか出来ない、といった言葉があります。わたしは日本語が大好きで、日本語を使って表現したり、意思疎通をしたりすることに満足しているけど、最近、他言語を学ぶ必要があると強く感じています。言語を学ぶということ、それは、言葉と概念(意味内容)を結びつけるということです。語彙が増えるということは、それだけ表現の幅が広がるということだとも思います。ちなみに、誤解のないように補足しておくと、平仮名と漢字とアルファベットとハングルを混ぜて使うと良い、という意味ではないです、もちろん。それは、水彩絵具と油絵具と岩絵具を一枚のキャンバス上でごっちゃに使ってしまうようなもので、それはそれで斬新で新しい何かが生まれるのかもしれないけれど、そういうことを言っているのではないです。時と場合に応じて、様々な道具を使うことが出来る、そういう表現の豊かさを持てたら、という意味です ;-)

それた話しをもとに戻します。言葉と概念という関係性が重要だと思うのと同じように、文字と概念の関係性も大切なものだと思います。文字は、作られたその時から概念と一緒です。文字に由来があるのがその証拠で、こういう仕草、こういう絵から、崩され、簡略化され、文字が出来ました*2。だから、文字にはひとつひとつに意味(概念)があって、単体で存在し得ます(ただし、しつこく書くけれど、人が存在してこその単体、という意味です。概念は人がいてこそ存在するものだから)。そういう意味で、ここに、文字が生み出す言葉の可能性のひとつがあります。また、その文字を組み合わせることによって別の概念を意味する、そこにも可能性の広がりがあります。そして、既に概念を持ったものとして作られている言葉に新しい概念を付属させる、それもまたひとつの可能性だと言えます。

最後に書いた可能性についての、ひとつの例をあげてみます。これはマイナスの可能性としての例なのだけど、ちょうど今、輪読会で読んでいる「エドワード・W・サイードとの往復書簡」という本(大江健三郎エドワード・W・サイードの往復書簡)の中で、サイードさんは9・11以降のアメリカによるイスラム批判についてとうとうと述べています。その内容についてもとっても興味深くて、一所懸命考えるに値するのだけど、そこに触れていくといつまでたってもこのエントリが終わらないので敬意を持って割愛するとして、言葉と概念についての部分のみ、一部、引用します。

それでも「イスラム」(何百もの異なる言語、多様な文化と伝統を持つ十三億もの人びとを人括りに表すには、単純すぎて意味のない言葉です)への敵意と誤解が、欧米を中心に世界中を包み込んでいるように思います。これによってすべてが単純化され、ひとつの文化や宗教の全体が少数のカリカチュアへと圧縮されてしまいます。その目的は、深いところに根ざす好戦的な姿勢を持続し、そのような姿勢への支持に大半のアメリカ人を無思慮・無批判に引きずり込むことです。

エドワード・W・サイードとの往復書簡」中野真紀子訳

9・11以前にも「イスラム」という言葉はありました。そして、それは「日本人」「アメリカ人」などと同様に、「イスラム」の人々を示す概念としての言葉でした。でも、アメリカが9・11以降、戦略的に「イスラム」という概念と「敵」という概念を結びつけてしまったため、「イスラム」という言葉の概念がすりかえられてしまい、本来「イスラム」が示す「イスラム」が消えてしまったというのです。そして、「深いところに根ざす好戦的な姿勢を持続し、そのような姿勢への支持に大半のアメリカ人を無思慮・無批判に引きずり込む『イスラム』」はもう既に「イスラム」としての意味は持っていないのです。

言葉が持つ可能性の巨大さは、考えるとくらくらしてしまいます。言葉は人によって作られ、でも人は言葉によって踊らされ、使いながら、使われながら、言葉と共にいます。「言葉は凶器に成り得るもの」という言葉があるように、言葉は道具です。人の思考を(限度はあるけれど)詳細に表すことの出来る、唯一の道具です。凶器にもなるけれど、励みや、温もりや、計り知れない言葉の可能性を、もっとずっと知りたいと思っています。

*1:自分好みの話題じゃないと食い付きが悪いのは自覚するところなので、輪読会やブログで「自分好み」の範囲を広げたい今日この頃です。

*2:アルファベットについては知らないのだけど(勉強不足ですみません!)、平仮名や漢字は、小学生の頃に漢字ドリルか何かで、「漢字のでき方」みたいなのを見た気がします :-)

The 514th

8日、京都市交響楽団の第514回定期演奏会へ行ってきました。
京都に来てからは学生オケを中心に、京都市内から果ては滋賀辺りまではいろいろと聴きに行っていたけど、そろそろプロオケが聴きたいなと思い始めたので、とりあえず近場&演奏曲目が有名どころで楽しそう、ということで京響の定演へ :-)
京都コンサートホールは何回か行ったことがあるけど、とても広くてきれいなところです。らせん状の回廊の壁に大友直人さん(指揮者)の写真を見つけてテンションあがったり、大友さんのプレトークが楽しくてウキウキしたり、演奏以外のところでも思い切り楽しんでしまいました ;-)
演奏曲目は下記の通り。

京都市交響楽団 第514回定期演奏会
ブラームス:大学祝典序曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番
ブラームス交響曲第4番

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指揮:大友直人(桂冠指揮者)
独奏:フセイン・セルメット(ピアノ)

http://www.city.kyoto.jp/bunshi/symphony/080708.html

告知では、モーツァルトのピアノ協奏曲は21番じゃなくて25番だったんだけど、セルメットさんがハ長調で勘違いして21番の練習をして来日しちゃった、ということで、1日練習して間に合わせるかどうするか迷った末、急遽21番になったのだとか(と、プレトークで大友さんが面白おかしくおっしゃっていました)。セルメットさん!(笑) そんなことがあるなんて、とも思ったけど、でも、21番もとても楽しかったので満足です :-) それにしても、合わせが基本的には3日前からとか、ソリストと合わせるのは前日のみだとか、プロオケはすごいなぁ。
どれもとても良かったけれど、今回は特にブラ4がすごくずっしりときました。大友さんの指揮、良かったです。それから、セルメットさんのアンコールがとても良かった! ブラームスインテルメッツォ2番*1だったんだけど、以前ピアノを習っていたときに弾かせてもらったことがある曲だったので、すごく懐かしく感じたのもあったし、とても余韻にひたれる良い演奏でした。

そうだ、それから、少し日は戻るけれど、4日は学生オケを聴きました :-) 本番ももちろん聴いていたけど、直前の練習(リハのような、練習のような)にも潜り込ませてもらって、ちょっとウキウキでした♪ 通しで、ドヴォルザークの謝肉祭とか、エネスコのルーマニア狂詩曲第1番を初めて聴いて、あまりに楽しくてどうしようかと思いました(もう1曲は、ベートーヴェンの田園)。エネスコのルーマニア狂詩曲はこちらで視聴が出来るので、ぜひ聴いてみてください :-) 終盤に差し掛かれば差し掛かるほど、弦も管もありえない速さになっています。途中でヴァイオリン・チェロがベースをとってぐんぐん速度をあげていくんだけど、あまりにぐんぐん行くものだから、思わず客席でわたわたしてしまいました(笑)。あと、めずらしく(だと思うのだけど)この曲にはヴィオラ・トップのソロがあります。このソロもすごく上手かったです。音色がとっても美しくて好き。こんな曲が弾けたら、すごく疲れるだろうけど、すっごく楽しいだろうなぁ :-)

京都コンサートホールでは、まとめて配布されていたクラシック関係のリーフレットを大量にもらってきたので、また良さそうなのがあれば聴きに行こうと思います。ブラームスにすっかり魅了されちゃったので、もっとブラームス交響曲が聴きたいなぁ。悲劇的序曲も好きなので、それもぜひ!

京響の次回の定演は、ブラームスじゃないけど、なんと須川展也さんが来ます。だから、これはもうぜひ行きたいんだけど、日にちの都合で、どうしようかなと悩んでいるところ。須川さんのあのサックスを生で聴けるなんて、すっごくすっごく行きたい…!

*1:6つの小品 Op.118 インテルメッツォ イ長調

考える時間

大学内で有志で行われている輪読会のことを知って、参加してみたいなぁと思ってアプローチしていたのだけど、昨日、ついにお邪魔させて頂くことが出来ました!
わたしが所属するゼミは論文を読むようなゼミでもないし、輪読ってどういうふうに進めていくのだろうって緊張していたのだけど、いざ始まってみると、とっても楽しかったです :-)
今はこの本を題材にしているから、と教えてもらった本は、事前にぱらぱらと読んで行ったのだけど、自分ひとりだったらさらっと流していたところをつっこんでいったり、逆に分からなくて気になっていたところを聞くことが出来たり、なにより、提示されているひとつの考えに対して皆で論じ合えるというところが何よりも魅力的でした。人と話すことで自分の中に何か新しい考えが生まれることもあるし、論じることは考えを豊かにすることが出来る気がします。わたし自身が論じる(とまではいかなくても、考えたことを話す)ことが好きなので、余計にその環境が心地よく感じたのかもしれないけれど :-)
本を読むことは好きだけど、ほうっておくと自分が好きな本しか読まないので、こうやって普段自分では選ばないような本*1を教えてもらって、皆で読み進めていけるのも素敵。
ただ、もっと聞く力が欲しいと感じてしまうくらい聞く力がなかったと思うことが、反省点です。普段から意識しようとしてはいるのだけど、なかなか一朝一夕にはいかないみたい :-( 少しずつでも、改善していきたいなぁ。
輪読会へは次回からも参加させて頂けるようなので、今からとても楽しみです。もうあまり大学生活を過ごせる時間もないし、一度いちどを大切に、反省もしながら楽しみます。来る来年に備えるためにも、たくさん頭を働かせて、意識して考える時間を持つ習慣を付けたいな。

*1:ちなみに今回は東浩紀氏・大澤真幸氏著「自由を考える」という本でした。